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山の母

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 襖の向こうにも惨状は知れたらしい。抑えつけられたまま目だけで辺りを見回すと、母は火鉢の側に構えて重を解きかけにしたまま膝の上に手を置いてこちらを見ていた。遠くに襖が倒れているのが見える。
「それまでは弟分として使っておやり。この子、物覚えはいい方だから」
「はい」
「春彦は須磨の言うことをよく聞くんだよ」
 立ち上がった母がそれにしても手が震えていたねと言った。関守に言ったものらしい。今度はしっかりやるんだよと続けざまに言う声は、叱るのではなく甘くたしなめた程度で殺すこと自体に特に異論はないらしい。
「しかしお前の腕は細いね」
「はい?」
 露わになった関守の手を舐め回すように見ながらいい体だと母は目を細めて腕に手を伸ばした。関守は凍り付いたように固まっていたが、指がのばされて腕に絡みついたときびくりとかすかに身を震わせる。いい体だ、と母は大きくしなると手を手に、腕に腕をぴったり這わせて関守の体を後ろから抱いた。柄を握った手が二つになって、関守が握る下の手はもう力もないのか握る形だけ残してごとりと刃物を落として肩からぶら下がるようになると、いよいよ母は体を関守に押しつける。ぼんやり見ていると作務衣を乱しながら右手がその奥に入った。
「細いがしっかりしている」
 そのまま手を奥へ奥へ動かしながら耳朶を噛む。中を探るのか関守が喘ぐように息を吐き出して震えてようやく短い悲鳴が上がった。関守が体を捩る。割合見慣れた光景だ。
 すっかり男の体じゃないかと母は笑ったが、関守は前を押さえながら荒い息をつくばかりで答えるどころではないらしい。空になった手を振って満足げに母は襖を直し始めた。この男も母の愛人なのだろうか。俯いて必死になって前を隠しているから表情のほどはよく知れなかったが若干涙ぐんでいるようである。愛人にしては随分うぶだ。母はなぶるようにもう一度男の顔を見ると、じゃあ風呂は頼んだからと一言言った。
「……はい」
 そう思いながら起きあがって見ていると、春彦もおいでよと言って母は襖の中に引き込もうとしたが、まだ靴を履いたままだったのでその場に取り残された。夜目が利くので不便ではないが、襖を閉められてわずかに見えるものの景色が変わるのが判った。火は明るい。部屋の中には明かりがたいてあったらしい。襲いかかる前に須磨は風呂を焚く口は閉めてしまったのか炊事場の上に切った窓からわずかな月の光が差すばかりで、見ていると埃が積もるように柔らかい稜線を重ねてゆくようだ。須磨はまだ涙ぐんでいたが、服の端を掴むと目の辺りを乱暴にこすって襟をなおした。脇に作った結び目を一度ほどいて結びなおす。そうして自分の方を見て、赤い目のまま笑った。
「早とちりしました。……その、」
「春彦」
 思わず言葉が口をついて出る。
「春彦ってよんで」
「はるひこですか」
「うん。桜の春に山彦の彦」
 判りませんよと須磨は言ったが、ややあって坊ちゃんに似合いのお名前ですねと一言言った。須磨さん、とぴしゃりと言って須磨を見る。坊ちゃんと呼ばれるのは妙にむずがゆい。それにこの男はまだ正体が知れない。
「春彦。僕も須磨さんって呼ぶ。須磨さんはだれ」
「須磨は関守でございますよ」
 須磨は困ったような顔をしていたが、まとめる言葉を思いついたのか、ここで姫神様のお世話をしておりますと言った。少し親しんだようであるが堅い口調は解けない。これが生来の話し方かもしれないし、それしか言葉を知らないのかもしれない。
「いつ来るかは知れませんので支度は出来る範囲ですが。大抵はお風呂とお食事と、お茶かお水かを汲んで参ります。あっという間に発たれる方もいらっしゃいますが、長逗留の方も居ます。姫神様は」
 須磨は一度言葉を切ってこわくないのですかと唐突に聞いた。
「怖い?」
 また言葉に詰まってしまったのか怖くありませんかと聞く。いくつか補う言葉が必要だった。須磨に代わって考える。
「僕が、母を、こわい?」
「はい、今です。それと、あの、その、さっき、……ええと」
 それにさっき大変申し訳ないことをしたので、としどろもどろと言うのがこうも似合うかと思えるほどに言葉をつなごうとする須磨の手つきは拙くて、思わず笑いそうになるのをぐっとこらえて慣れているからと笑いすぎないよう努めて静かに答える。はあ、と間の抜けた声を上げて須磨が答えた。母の相手は温厚な男ばかりではない。にこにこと笑っておきながら首を絞めようとする男もいる。感覚が麻痺しているのだと思うし、自分のまともさもあまり信が置けない。じっと見ていると、春彦さんはどこまでのことをご存じですかと聞いた。
「さっき、あまり顔色を変えていらっしゃらなかったので」
「えっと」
 まるで手の内のさぐり合いだ。そうではなくて手探りと言うのかもしれない。鉈の話は済んだし、夜中に母が自分と訪れたときは自分に顔色を変える要素は無い。そうするとどの時点のことだろうか。そういえば母が須磨に何かやっていたことを思い出してあまり大きな声で言うのも憚られたので須磨の耳に口を寄せてぼそぼそ呟くと、それですと須磨が頷いた。言いながら耳まで真っ赤になっている。
「どうなるかもご存じですか」
「大体は」
 須磨はそれを水にするのですよと言って戸口を指した。
「例えば姫神様のご都合の悪いときもございましょう。その、」
 例えば夫と別の男とまぐわってはらんだときかと思いながら頷く。たぶん世間ではそうだ。言葉にはしない。
「まだ生まれていないものなら姫神様が自ら水を飲ませて弱らせていきます。毒がございますから産まれた子供でも、小さなものなら十分に効く。お年寄りにも効きます。丈夫にもなかなか効き辛いそうですが、まるきり効かないわけでもありません。坊主が死んだくらいですから。関守の仕事はその水を汲んで運ぶお手伝い。それと」
 大きなものはつぶしますと須磨は言った。
「効くのが間に合わなかったり、お相手の方で厄介な方は山までお連れ頂いて打ちます。鉈ですることもあるし釜で煮ることもあります。あまり大きいと手に負えないので、姫神様にお手伝い頂いて別のものにしてから捌くのですが、得手不得手がありますし、魔法が使えない姫神様だって多い。変えられたとしても須磨は、変えられる前も見ているわけで――」
「うん」
 すると先刻の行為に繋がるのである。
 不思議なのですねと言った。
「鉈をふるいます。そうすると次の瞬間別のものに変わっている。体の小さい、子供の場合なんか特にそうです。鳥が飛びます。蝶々になります。虹色に光る小さなとかげだったり魚だったり、あんまり小さいものはみんな魚です。ゆばりからも小魚が湧くのも見ました。毒が間に合わずすわお産かと支度していたら、産湯の桶に」
 そういうものなのでしょうかと須磨が言った。少なくとも自分はそういった話を聞いたことがない。そう言うとそうですかと須磨が呟いた。
「考えてみればそちらの方がすなおです」
「須磨さんが変えるのではないの」
「私はまだその域ではございません」
 せいぜい飲まず食わずで半年生きられる程度だと言うがそれでも十分奇跡である。
 今度は私が聞く番ですと須磨が言った。
作品名:山の母 作家名:坂鴨禾火