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山の母

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「ええ、面倒だね」
 叩きすぎて手が痛いのか、母は戸を叩くのをやめて手を振ったとき不意にがらりと木戸が開いた。現れた男は予想の通りだいぶ幼い。
「遅いじゃないかい」
「はあ、支度に手間取りまして」
 どうしたんですこんな夜中に――と男が答えた。それから自分の姿を見てお連れ様ですかと母に聞く。
「私の子さ」
 母が鼻白んだように言って、相方にするにもお前よりまだもう少しかかるねと呟いた。そうして男を値踏みするようにじろじろ見る。母の視線に耐えかねてか、今足を洗う水をお持ちしますから、と男がそそくさと屋の内に消えた。
「湯も使われますか」
「うん。薬湯が良い」
 声だけ聞こえる。
 男が戻るのを待たずに母は敷居を跨ぐと上がり框に座り込む。春彦も座りよと母が言った。
 物珍しさに辺りを眺め回すと玄関と土間続きに台所があって水瓶が二つ三つ、薪が幾山、その隣にある小箪笥には絵入りの什器が重ねてある。框にかけて入ってきた方を見るとやっぱり水面に映っていたのはこの屋の内のように思えた。座った隣で母は暇そうに足をぶらぶらさせていたが、自分が物珍しそうに辺りを見ていることに気がついたのか、ここの創建は古いよと笑った。
「元々は坊主の住んでいたところを改装して、いまは山を行くときの休息所のようになっている。泊まりも出来るよ。火は薪を燃す。ただし水は少し不便かな。飲む水はね、下の谷まで行くか毒消しを入れるかしないと無いんだよ。前に池があったろう。あすこはね、薬にもなるが毒にもなる」
 あの男は関守だよと言って、母は桶を抱えて顔を出した男に一笑浴びせかけた。面食らったように男の足が止まって水がこぼれる。
「名前はなんと言ったっけ」
「池にございますか」
 玉泉でございましょうと男が桶を置きながら言った。それは雅称だと言って母は屋の外を見る。
「もういっこの方。何だっけね、……ああそうだ毒泉だ。坊主が水にあたって死んだんだ。だからここは毒泉坊だの玉泉坊だのと言う。坊主が山に住んでいたのも三百年五百年前のことだが、他に名前もないものねえ。して、」
 お前はなんと言ったっけ、と母が立っていた男の顔に手を伸ばして言った。
「関守でございます」
「そっちじゃないよ。それは仕事の名前じゃないか。それじゃ面白味に欠けるからって、前に名前をあげただろう。そうしたら、何を聞き違えてか衝立とか障子とか言ったから大笑いした覚えがあるんだ。何だっけね。淡路でもよかったんだけど」
「せきもりはせきもりでございます」
「だから違うったら」
 軽口を叩きながら母は裾を捲ると関守の用意した桶の中に足を突っ込む。関守という名前はどこかでそういう名前を聞いたことがある。しょうじは庄司とも、また東海林とも当てられたがついたて続けるのはやはり家具の障子だ。家具で似た名がある、淡路と縁のある。かるたにそんな札があった気がした。読み札の方に絵がある歌がるたである。
「須磨?」
 ああそれ、と母が言った。関守はきょとんとしたままなのは本歌を知らないらしい。多分元は百人一首の幾夜寝覚めぬ須磨の関守で、読み出しは淡路島である。作者は忘れた。須磨なら一文字足せば襖になるし、明石とも縁があるから多分間違いないように思う。無教養なのもいささか考え物だねと母が言って足の泥に水をかけた。裾をしどけなく捲って白い腿まで露わである。
「須磨、お風呂もお願いね。薪だから沸かすの時間がかかるだろう。……私らはその間お重を開かせてもらうよ。何かあるかい」
「菊酒の残りが少しと肴で山菜が」
「じゃあそれ。春彦も靴を脱いで使いなよ」
 いま拭いますからと関守が手を差し出しかけたが母は気にした風もなく関守の手から手拭いを取ると拭き始める。一瞬怯むように須磨は手を縮めたがあっと言う間に手が遠ざかって呆気にとられたのか安堵したのか、ふうと一つ息を吐き出すと自分の方を見た。そうして坊ちゃんもお使いなさいと足下に屈んで言う。
「僕平気」
 勝手知ったる場所なのか、母は襖を開けて奥の間に入ってゆく。
「本当に須磨さんっていう名前?」
「関守は関守でございますよ。須磨と呼びなさるのはあの姫神様が初めてです」
 母の名は姫神ではない。旧姓はまた別の名だった。姫神とつくのは山の名で、またそこに坐す神である。そう言うと須磨は名を聞いたときと同じ調子で、姫神様は姫神様ですよ――と言って少し考え込んでいたが、そのうち納得がいったのか姫神様もたくさんいらっしゃるのですよとぽんと手を打った。自分は不服そうな顔をしていたらしい。手を打った後しばらく自分の顔を眺めていた須磨が困ったように違うのかなあと呟く。
 関守の言動は幼いのかよく判らない。子供のようにころころ表情は変わるが物言いは丁寧である。その割にあまり物は知らないようで、その証左は須磨を襖障子紙の類と混同したことからも知れた。自分が知っていることを関守が知らなかったということは、魯鈍か怜悧かの違いではなくておそらく文化の違いなのだと思う。母が魔法について説いたのと同じだ。平地人が魔法を使えない一事を以て、利口だの愚かだの論じることは出来ない。
 お上がりにならないのですかと土間の隅から薪を運びかけた関守が、框に座ったままの自分を見て言った。風呂の釜の口は土間の端に切られてあるのか、小さな扉の開いた前にどさりと木の束を置く。
「お待ちですよ、きっと」
「うん、――」
 それは知っている。けれども火をたくところを見たい。
 そんなに珍しいことではないでしょうと関守は呆れたが、そう言いながら次々釜の口に木切れを投げ込んでゆくのはまるで魔法を見るようである。火は赤々と燃えていた。薪をくべる手は緩まないのに関守は何か逡巡している。浮かない顔で黙り込んだまま手だけ調子よく薪を投げ込むのは慣れているのか、ふと思いついたように襖の絵は見ましたかと顔を上げて聞いた思いついたことの割には思いつくまでの時間が長い。
「坊ちゃんなら読めるでしょう。歌か何か書いてあるということですが」
 その間にも薪は投げ込まれていく。読んでくださいと関守は薪の山を崩して今し方薪を投げ込んで空になった手をその中に差し込む。襖に文字などあっただろうか。引き手の所です、と関守が言うので大きく振り向いて探したが一向に見つからなかった。無いよと言って振り向こうとする。その瞬間手が伸びるのがわずかに見えた気がする。
 強かに背中を打った。襖が大きくたわむのが判った。
「う、」
 飲むつもりだった息が喉で支えてむせることも出来ずにもがいて喉の辺りを見ると幾分か大きい子供の手が片手でしっかり握って、もう一方の手は宙の高いところで刃物を握っている。薪を割るのに使うものらしい。太い柄に菜切り包丁を何倍も大きくしたような刃が無造作に付いてよく磨かれているのが、刃の切り返しがほんの薄く見えるだけで目をこらさなければどこに刃があるのか判らない。そういえば薪と一緒に関守が炉の近くに置くのを見た。ばたばたと手を振り回していると襖が倒れた。刃物と一緒に白い筒袖が動いて振り下ろされる。
「お止めよ」
 部屋の中から顔を出した母が言った。須磨の手が止まる。
「まだ良いよ。殺すと決めたらそうお前に言うから」
作品名:山の母 作家名:坂鴨禾火