山の母
つまらないことをと吐き捨てる母に手を引かれなければろくにきた道も行く道も判らない。足下を薄ら寒い風が吹き抜けてゆく。この風は母の味方だ。母のことが嫌いなわけではなかったが、先程から恐ろしいものに手を引かれているような気がしてならない。金糸銀糸の豪華な衣の袖からのびる細腕はまず間違いようもなく母のもので、薄物の袖もひらひら、裾はゆらゆら、黒髪は夜に混じって眼ばかり異様に明るい。母だ。野の鬼婆よりももっと気高い。石を踏んだ跡は既に泥が血と混じって薄く脂が浮いている。眺めている間に腕を引かれて思わず踏んでしまってから、嫌な感じが足下からせり上がる。泥濘を踏んで服にも水が飛んだ。靴は言わずもがなだ。木の枝はあんなにしなるのに泥はいささかも押し返そうとせずただにちゃりとするのは泥には命のないせいだろうか。けれど同じ血が入っているからには同胞である。どこかでは神は泥から人を作ったという。そうであるならこれは生まれるに至らなかった自分の同胞なのだ。母の閨で足にまとわりつくのはこの埴に違いない。血腥い。風が凪いでとろとろとする間に一瞬鉄の匂いが沸き立つ。ここは現実のはずだった。いつでも夢を見ているような心地がするから言葉にどれほどの説得力があるのか判らなかったが、記憶の限り確かにこれは現実である。不思議なことなど世にいくらでもある。空を飛ぶのも夜目が利くのも自分には何ら差し障りはなかったが、もしこれが夢なら自分はまた殺されてしまうのだろうか。夢の最後はいつも決まって粘る地面に足を取られるか息が切れるかともかく母に捕らえられて、口をふさがれるか何かに叩き付けられるか肌を切り裂かれるかとにかく殺されて夢は終わる。前を行く母は、後ろでそう思っていることお構いなしに軽々と足を運ぶ。知ってそうするのかもしれない。母の足はもう半分が血濡れだ。足取りは軽いがどこかで傷をつけたものらしい。母の顔はわずかに不快そうに歪んでいる。見上げながら歩くうちにだんだん言葉数が少なくなって、やがてああ、やっぱり痛いね――と呟いた。
「なんだかどこまでも歩けそうな気がしたんだが、途中で休まないといけないみたいだ。お重もあるし」
母が片腕でぶら下げていた包みを見る。
「まあ、あれのところに寄って行くのも悪くはないかな。春彦、疲れてきたかい」
声音を変えて母が聞く。甘い声だ。おやつを食べようというときと同じ声である。
「お腹減ってきたかい。この先にね、知り合いの家があるんだよ。ちょっと寄らせてもらって休みがてらお重を開こうよ。そうしよう?」
「……。」
他の選択肢がなかったので縦に頷く。母のことがけして嫌なわけではない。ただ、生殺与奪を握るのはこの山中では母なのだ。常の生活でも自分は母の手元に置かれているとはいえ、一日の終わりには父と机を囲む機会もある。言葉数は少なかったがそれでも話なら聞いてくれないわけでもない。しかし今それはかなわなかった。山の道を進む。父も来ることは出来ない。
夢のあの暗い閨も逃げるような場所はなかった。山坂はないが異様に広いのである。ただしどこまで行っても閨は暗いままの閨だった。もしあの閨がまことに子宮であるのならばどこか出口があるはずなのだが、夢から覚めることによってそれに代えられるのかもしれない。覚めない夢はどうしたらいいのだろう。夢ではいつも死んで終わりだ。
考え込んでいるうちに雑木が晴れて星が覗いた。月の形も拝めた。本物の月だろうか。ぼんやりと見上げる月の形と高さから、まだまだ朝は遠いことが知れて暗い気持ちがいっそう暗くなる。間の悪いことに夜目が効くから、暗い中でも遙か先まで見通せた。ああもうこれは死ぬしかないのかと思った。随分手は込んでいるがこれもまたいつもの夢である。
暗い閨のような夜の闇に母と二人きりである。そのうち人の屋に行くのだと言うが重箱を開くよりも先に布団が出てきそうだ。それくらい非常識な時間である。また屋を構えている人と言ってもまっとうな人間である保証などどこにもない。母は怪しげな人でも男であれば平等に並べた。そういう男は時々家にまで顔を出して、脅しやら賺しやらしながら金を無心しようとするがそこまで行くと母はほんの少し嫌そうな顔をして、ちょっと出かけてくると言い置いて男と共に姿を消す。そうして消えた男は思い出す限り二度と顔を見たことはない。そういうときは自分を連れて行ってくれない。
いつだったか、面白い話をするので割合懐いていた男が同じように金を普請に来た。戸口でくどくど言っているのを母が連れ出した後、戻ってきた母にその男の行方を問うと、薄く笑って、男がいつも首にしていた細い鎖を胸元から引き出して見せたことがあった。
――馬には首周りにもっと別のものを巻くから。
馬とはあの馬だろうか。動物園で見たことがある。
考え込んでいるうちに家の前についたのか、母が木の戸を鳴らした。誰も出ない。普通なら寝ている。
見る限り山の家は人の住んでいる気配などどこにも見せずに佇んでいた。家の周りに何か背の低い茂みがあるが、それの周りを回っても子供の自分の息が切れないほどこぢんまりした住まいだ。この家にいるであろう母の男と、母と、その連れの自分とで三人、入らないわけではなさそうだったがあまり一つの家族が住むには向かないところだと思った。もとより山の中だから水道は無いはずだ。どこかから汲んでくるのだろうか。湿り気を帯びた風が首筋を撫でたので、振り返って見ると家の前には水溜まりがあった。池なのかもしれない。もしかしたら深いのかもしれないが、その割に生き物の気配が無いので星や月のかすかな震えまで映すようである。ほとほとと風が鳴って水面が乱れた。揺れる水の中で母が戸を叩いている。
覗き込めば覗き込むほど水面は、水の中を見せない代わりにいろいろなものを映すようだった。何も知らずに眠り込んでいる父の姿も見えたし、いつか行った遊園地も見える。怪しげな男のたむろする繁華街は未だ明るかったがそれでも明かりはだいぶ眠たげで、一つまた一つと店を閉めるのか客引きとは違う地味な出で立ちの男女が看板を店の中に引き込んでいる。背後ではしつこく母が戸を叩いていた。この木戸の中を見たいと思って眺めていると、水面は束の間渋っていたが真っ暗な中に一人の後ろ姿を結ぶ。
誰なのだろう。
若い男である。一瞬自分の姿が映っただけなのかとも思ったが姿形が少し違った。立ち姿は幼い。自分よりは年老いているのか室内の調度に比べてみたときにはもう少し年長の感があったが、それでも母の愛人にしては幼すぎる気がするのが否めない。秋の寒夜に作務衣のような筒袖の白い衣に袖を通して、襟首はだらりともせず立っていた。眠気は微塵に見えない。戸の前に立ち止まったまま動かないまま静かな夜に響く木戸の音を聞いている。手が家の戸の心張にかかっていた。けれども指は凍ったように動かない。推すか敲くかほとほとという声は推すよりも高らかに戸の外の来訪を伝えていたが、声が高くなるほど指は動かなくなるのは外にいるものが恐ろしいものと判っているかららしかった。外には母がいる。そうして自分もいる。思い出したように指が震えた。緩慢に心張りを外そうとするらしい。