山の母
どれもう一度夜目をかけてやろうと手を翳した。片方の手は手首を掴んだままだ。お前まだ山の子じゃないんだねえと言いながら足を止めて二度三度目の上を強く擦る。月は確かに見たような気がするのだがまやかしらしい。それでも雲の裏のどこかにはあるはずだった。
「強情だ」
擦りながら母が呟いた。
「これだけかけてもまだ足りない。お前ねえ、ぼんやりしながら遠くを見る癖があるだろう。それだから妙に術がかかりにくいんだよ。今度はしっかりかけてやるけどあんまり拭うんじゃないよ。剥がれるから」
「はがれるの?」
「剥がれる」
目の上を擦って何をしているのかと聞くと、魔法をかけているんだよと母が答えた。目を擦ることが魔法なのだろうか。そう言うと母は手を止めてしばらくは自分の顔を眺めていたが、お前、魔法といって何でも自由に出来ることだと思ってないかいと一言言った。擦られているうちに世界がまた薄ぼんやりと明るくなっている。
「魔法だといってもただ無闇に使えるものではないし、それに理屈だってちゃんとあるんだ。駄目なものは駄目さ。ただ、外側からは原理が判らないから魔法という。町には街灯があるね、暗ければ懐中電灯もある。ちっとも不思議じゃない。山ではもっと別の方法があって、あるいはその明かりが元からいらないのかもしれない。……さて、見えるだろう」
ちょっと辺りを見回してごらんと母が言って紅葉の袖を退けた。夜の暗がりはそのままだったが天から光の注ぐ葉の表面や道端の石も湿り気を帯びたように光って心なしか遠くまで見渡せる気がする。もっとかけると昼目がつらくなるから、と母は言うと草を分けて歩き始めた。裾が揺れてかすかな風が、足が地に着く前に届くのか地上の草がさっとわかれて道になる。土の色は赤い。鬆になった石が転がっている。この山は昔火山だったのだろうか。聞くと姫神が開祖さと母が言った。
「麓に寺社があるだろう、昔は姫神の所領だったところでそこにいた。昔は人と争ってよく平地を焼いた」
今も坐すと道を辿る。
「そう。だから麓の社はね。言ってみれば人里の注連で、境に標識を立てて、ここまでは人の知る域というのを示している。翻ってみればそこから先は昔からの姫神の坐す山だからあのひとも容易に追ってはこれまい」
「お父さんが?」
母は答えない。代わりに山の名所見所を歌うように述べ上げる。春は桜の、秋は紅葉の、葉の色花の色を歌い上げる唇がふっと夜の中に香って思いがけず粉黛の声を聞いた気がする。山を行く母は思いもかけず盛装だった。まるで若い恋人の元に向かうときのように、おしろいをはたいてまゆずみを塗って、靴こそ麓に残してきたが足の指がなめし皮ように柔らかく岩を踏んでいる。今にも血が迸りそうだ。既に流れ出しているのか道に点々と赤い跡がついていた。違った。あれは元から山にある石だ。母の前にも同じように足の間から血を流して行く人があったのだろうか。この山に住むのは昔から姫神だと薄衣を翻して母は言ったが、先にこの道を行ったのは神であるから人ではないのだろうか。母もまた同じ道を踏む。そう思ったときぞっと寒気が腕を伝って骨の髄まで染み込んだ。骨の中には神経が通る。学校へ行かなくてもそんなことは知っていた。
お前はいい山の子になりそうだねと母が言う。
「未だ少しもなれていないが、なったらなったでよく似合いそうだよ。山にいるから山の子だ。少し魔法も使う。平地から見ればそういうことになるんだろうね。山を行くにはいろいろの術が必要だから」
「魔法」
魔法を使うのは仙人か仙女か、ともかく常の人ではない。
背中の荷物に入っている本の重さで我を取り戻すと、何事もなかったかのように腕にすがって山道を辿る。ひょっとしたら母は人ではないのかもしれない。天女だ。父の話を聞いたときにはそんなことも思ったがそれもなんだか違う気がする。もっとおぞましいもの、例えばあの暗い閨でぴたぴた冷たい音を立てながら肉を食む音、子を犯す音引き裂く音、次々に入れ替わる母の隣の男たちの行く末などを思いはじめると、夜の闇より暗い風が母の周りでくるくる回って母の薄物の裾を揺らしているように思えた。自分の裾は野暮ったいゴム編みだったから、そよともせずにズボンの上にへばりついていたが体の中に抱え込んだ闇の深さは同じかもしれない。四六時中母の側で暮らしていたし、その外の世界を見知りすることは極めて稀だ。いつかすれ違った帽子の子供の集団が、自分を見て何を思ったのかは知らなかったがたぶん異様なことは感じ取ったのだろう。自分も、みな同じ帽子をかぶった子供の群に興味を抱いていたことは嘘ではないが、それでも子等の誘いを無碍にした。母を起こさなければならなかった。していることは共同で共犯である。母の支度をさせなければならなかったし、母の行いには口を噤んでただ笑う。何より自分は母の子であった。父親の血と母親の血と半分が混ざりあって子というものは成るらしかったが、それでも半分母の血である。
父は学問の人だった。子供ではなく大人がやってくる学校で教鞭を執ったりものを書いたりしているらしい。仕事は大体家の外で済ませてくるらしく、家に帰ってくるとすぐに眠ってしまう。朝家を出る時刻は決まって七時半の少し前だ。入れ違いのように夜家を出て行く母とは対照で、風を吹かすこともないしあまりしゃべらない。ただ本は読んでくれた。主に昔話や童話である。教壇に立つときにはそれなりに話もするらしかったが家に帰る頃には疲れ切っているせいでそんな印象になっている。風采もあがらなかった。どちらかと言えば派手好みの母がどうしてそんな父と婚姻に至ることになったのか、上着が、と共に繰り返していたが、何が父と母の間にあったのかは知らない。一つ言えるのは、自分はこの父が好きだということだ。好ましい。仕事の忙しい時期は夜更けまで帰りを待って食卓の前に座っているときの心細さが父の顔を見た途端に消え果てて、代わりに眠気がおそってくるのだが、それでも耐えて夜食の支度をしようとするうちに眠ってしまっていつの間にか次の朝自分の布団で眠っていることがある。ふとみると横には帰ってきたときのままの父が疲れたように横たわっていて、窓の外は朝になっているのにもかかわらず、食卓には夜食の準備をしたまま明かりが灯っているのが常だ。母は寝ていたり起きていたりする。
朝、薄暗い中で親子三人が疲れ果てて眠っているときが、歪な我が家の生活実態において一番家族らしい時間なのかもしれない。そんなことを考えていると、あのひとのことを考えているのかと母が言った。