山の母
母は裸足だ。それが面白いように山の勾配を駆けていく。半ば母に引きずられるように山を駆け上って息を切らしていると春彦も裸足になればいいのにと母がけらけら笑って言うが危なそうなのでやっぱりやめておく。それと荷物を持ちすぎだから遅いんだと言って母は歩みを緩めた。経った時間はほんのわずかだったが随分息が切れている。風が吹き上がって頭上を覆っていた木の枝が払われた空は相変わらず星ばかりであったが、よくよく見ると空の低いところにぼんやり明るい雲の一群があってようやく月が昇りだしたようだった。いまはいつなのだろう。時計はいつも壁に掛かっているものばかり見ていたし、山の中に時計はない。月の高さと形を見れば大体の時刻が判ったが、見えないのならば意味はなかった。夜の遅いかも早いかも判らない。そもそも夜は明けるものか、常に夢を見ているような心地のする自分には昼などあってないようなものだったが今は切実にそれが知りたい。
母は。
いつまでこうして歩き続けるつもりなのだろう。自分の心配をよそにさあ行こうよと休憩を打ちきりにして山の道を歩き始めた。相変わらず疲れたような様子は微塵に感じさせなかったが、自分の遅れを気遣ってか歩調は以前よりずっと緩まっている。
「今はまだ少し早いけどね」
母が言った。
「時期がくればあたり一面の紅葉だよ。そうして月が出ればなお良い。春には桜も咲くよ。夏は青葉の木下闇に、時鳥が鳴くのを待つのも良いね。秋は言った、冬は」
白いばかりだと母が呟く。
「平地ではあまり積もらないけれど、十一月の末にもなれば峰の辺りから薄化粧。下の山は紅葉だね。春にはまだ柔らかった若葉が、夏を経て緑の色を濃くして、秋になってようやく艶っぽくなったところに上から雪が降りてくる。そうすると木も草も山のけものもすべて眠ってしまうさ。紅葉も落ちる。木も枯れる。松や杉の常盤木も嫌いではないけれど、どこか爺じみて嫌だね。松には松の時期もある」
春になったらまた来ようかと言って、母はまたすぐその必要もないかと言った。母の考えていることは掴み辛い。口にしている物事の、色や姿は変わるがそこに横たわるものは同じだ。みんな母から出る。けれども容易に意味は知れない。七色の風も傍らの男も指の先一つで容易に消したり変えたりは自由だが、ぱちりぱちりと指を鳴らす母は母だ。
上着の袖をざっと振り上げると母は紅葉のよく見えるところへ案内しようと言って地を蹴った。
「え」
比喩ではなく将に宙に飛ぶ。少なくとも自分にはそのように思える。足下に地面がない。代わりに山の草木が枝ごとに、踏んだと思う遙か下方でざわざわ鳴るのが恐ろしい気がして下を覗くと夜目には見えがたいものの何かの影が風にあおられているのが見える。谷川の音だろうと母は言うが、たまにひらめくのは赤子の手よりももっと小さい楓の青葉ではないかと思った。月はいつの間にか薄くなった雲の切れ間からさっと照らしたもののまた何事もなかったかのように雲の中に隠れる。あれは下弦の月だなと気を取られていると足にとんと地が付いた。地面ではない。崖の断面にせり出した大樹の上だ。足下の枝は揺るぎもせずにそこにあったが、枝の末はゆらゆら揺れてまだ青い葉を降らせている。落ちていく先は知らなかった。知りたくもない。
相変わらず母は手を握ったままであったが、休もうかと言って手をほどきかけるのを慌てて袖を掴んで踏みとどまる。大分高いところにいるはずなのに母は平気なようである。
片手で手を掴みながらあすこが姫神の山と木の葉の切れた一角を指した。
「こっちが坊主岳で、あれは板碑の山。その手前はずっと川が流れていて、麓はあの辺りだよ。家はその向こう。見えるかい」
「見えない」
じゃあ魔法をかけてやろうと母が紅葉の袖を掴むと目の辺りを擦った。少しだけ辺りが明るくなる。月が出たのかなと思った。相変わらず月の所在は知れないままだが、雲が薄くなったのか辺り全体が明るくなったような気がする。そのせいか少し遠くまで見通せる。
あんなに遠い、と手を掴みなおした母は楽しげに麓の方を指した。
「今は急ぎ足で上ってきたけれど、普通じゃなかなか追いつけないよ。あのひとはきっと何も知らずに寝転がっているはずさ。山の地の利は私に有利、ましてや夜だから容易には辿れまい」
「お父さん?」
「そう」
上着一つで私に勝った気になったのが間違いだと笑って上着の袖を翻す。ゆったりとした袖が二度、三度目の前を横切るうちに不思議と夜目が効くようになって目の前の袖の紅葉の色が夜の中にも鮮やかに見える。奥の方に見える誠の木の葉はまだ青々と茂っていたが、袖が通るたびにだんだん色を変えていくようだ。
この上着はとっても大事にしていたんだよといとおしそうに袖を眺めてまたひらひら振った。裾の方が汚れているよとやや不満げに言うものの、さほど気にはならないのか上機嫌である。あのひとは上着が縁で付き合ったんだよと袖を振りながら母が言う。
「好きだった上着をね。あのひとに水をかけられてね。大変だ申し訳なかった代わりに償いをさせてほしいとか、ごたごた並べているうちに、上着をどこかに隠されてしまって結局ずるずると付き合うことになってしまった。上着の汚れもなかなか落ちなかった。置いたのが炊事場の上じゃあ燻されて仕方ない」
まだ汚れが少し残っているのが気になるのか、時折摘んで布地同士を擦る袖につられて山の紅葉が赤くなる。まだ緑色の山の上に紅葉の薄い衣を一重ね、一重ねしてだんだんに秋はやってくるのをまるで母がおびき寄せているようにぞろぞろ赤くなっているようで、思わず目をこするともう元の暗い山で月ばかり空の上に照っていた。勿体ないことをするねと呆れたように母が言ってしばらく山裾の景色を眺めていたが、踵を返すと枝を伝って崖の上へと登り始めた。必死に袖にすがる。
母はもろい足場の上を、何事もないかのようにすいすい進む。百貨店の街角や、川縁や桟敷を逢い引きの男と肩を並べながらすいすい進むのをみずすましのようだと思って眺めていたことがあったが何も平地だけに限ったことではないらしい。普段から踵の高い靴を履いて出かけるのはわざと足場を斜めにして、足場の悪い山中にあわせていたのかと思った。そう考えると母の行動は、どこかのお妃になった娘御が宮城に靴をおいたのとはまるで反対だ。母ははじめから姫君である。靴をおいて段のない坂を駆け上る。山の麓に置いてきた華奢な靴のことを思いながら母に続いて自分も枝から飛び降りると、その調子と母が裸の足で次の枝を踏んだ。衣の袖が大きく揺れる。崖の上へ飛んだ。地に足が着いて、そこからは普通に歩き出す。
「こっち」
母に付いていくつもりでふらふら歩き出すと道はこっちだろうと母が別の方を指した。暗くてよく見えない。
「そっちは今上がってきた方だろう。崖だよ」
そもそも一寸先も見えないような暗闇なのである。月が消えたのだろうか。
そう言うと母が、さっきお前目の辺りを拭っていたねと言って呆れた。
「月ははじめから出ちゃいないよ。どれ」