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山の母

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 家の外へ出ると真夜中だった。母が帰ってきたからもう昼だと外も確かめずに思っていたがどうやら勘違いだったらしく、月もないような夜に星ばかり煌々としている。驚いて足を止めかけるのを早く、と母は叱咤すると手を強く引いて自分を玄関の外に連れ出した。
 母は無言だ。締まりの悪い家の戸が鳴る音ばかりひどく聞こえる。
「どこへいくの」
「……。」
「誰かに会うの」
 わずかばかりの時間、自分は表に連なっている街灯を眺める。母は急いで玄関の鍵を閉めるとまた手を掴んで歩き始めた。母が出かけるときは大抵誰かに会っていた。夜中母が出歩くとき自分は眠いので同行することは少なかったが、そのときも大抵誰かに会っていた気がする。出がけに寝室は確かめてこなかったが、父も眠っているはずだった。こんなに夜は暗いし人の通りも車通りも疎らを通り越して久しく絶えている。
 母と自分の足音の外はときたま山をどっとならして吹き上がる風の音ほど、昼なら常に音の絶えない辻も川の橋沿いも、みな寝静まっているのか地を踏む音が夜の中に響き渡るようで自然忍び足になる。夜に乗じて姿を忍ぶのは容易い。けれども初めから形の見えない音はどうすればよいのだろう。隠そうとすればするほど姿が露わになって、音を咎める人の足音がありもしないのにひたひたと背後から迫るようだ。
「お父さんは?」
 そこまで聞くと母は急に歩く速度を緩めてしーっ、と息を吐き出した。それからまた急ぎ足で歩き始める。母には男がいる。父以外の不特定多数の男である。逢い引きが世間的に許されがたいということは子供ながら理解しているつもりだ。昼過ぎにテレビをつけるともつれ合う男女が、後に女の夫のような人から暴言を投げつけられているのを見たから多分、常識的に考えていけないことだった。父が留守の間に母が若い男ともつれているのを見た。老いた男とも青二才とも、奥津城のように暗い寝間で絡まり合っているのを幾度となく目にしていたし、生肉を食うような湿った音がその暗闇の奧から聞こえてくるのも聞こえた気がする。そうしてそれは良くないことのはずだ。だから目と耳をふさいで何も聞かなかったことにしていた。たぶん自分の選択は正しかったのだろう。母も何も言わない。
 けれどもことが始まると、意識とは正反対に視覚や聴覚は執拗に奥の寝間の様子を探ろうとしているのが判った。絡まり合う裸の色は目を閉じても瞼の裏に執拗にその光景が映し出されて夢にまで見たし、目をつぶっていても耳は細かな衣擦れの音まで確実に拾ってますます瞼の裏の光景を濃くした。思うに閨の光景は、生まれてきたとき通ったあの薄暗い子宮の様によく似ている。そこで母を犯し母は子を引き裂いた肉を食らって、薄汚れた閨の床にふしだらに横たわっている。そんな夢を見るたびごとに、声にこそ出さなかったが目が覚めた後の心の底に澱のようなものが一重二重と折り重なっていくように思えた。夢なのだろうか。現実なのかもしれない。けれどもどちらも口を噤んでいなければいけないことだったから、どちらでも大した変わりはない。あの暗い閨に父が現れたことこそなかったが、現実の寝間は夜も遅くなれば父が横たわって、そうして今も横たわっているはずである。だから父もまた、あの閨の中のように母と裸で横たわっていたのだろうか。ちょっと居てもらうためにね、と頭の後ろをしきりに掻きながら天井を見ていた父の声が思い出された。居てもらうために何をしたのだろう。交接だろうか。父と母がまぐわって自分が生まれた。もしかしたら自分は父の子ではなく昼間母の体に覆い被さっていた男たちの内のひとりが父であるのかもしれなかったが、知る手段がない以上考えても仕方がないことなのかもしれない。母の隣にいる男は常に移り変わっていったが眠るところや暮らしているのは父の帰ってくる家で、物心ついたときから父は数多のほかの男とは違って母のそばから離れなかった。そうして今は、母はその父の家を離れるらしい。
「……。」
 戻ってこないからと言った母の言葉が妙に胸を苛んだ。自分の考えすぎなのだろうか。
 物思いを止めて辺りを見回しても辺りはまだ真夜中だ。そうして母に連れられて、山に向かっている状況もまた変わらない。あてのない思いを巡らせているうちに、目の前の出来事は全部夢のなかの出来事になって、目が覚めればいつもの、ありふれた、そうして普通の朝になっていないかと心の奥底でぼんやりと思っていたがかなわないことであるらしい。なんだか常日頃から寝ても覚めても夢ばかり見ているような気がしたが今日は一段と夢の度合いが甚だしかった。そも普通の朝とはどのようなものであるのだろうか。父が買ってくれる本の挿し絵では、自分と同じくらいの年の子供は朝学校に出かけている絵が時折挟まれてあったが、もっぱら自分は明け方帰る母を待って朝食の支度を手伝いながら学校に出かける父を送り出す。そうして朝食づくりの途中で寝間に引っ込んでしまう母の傍らで本を眺めるのが常だ。昼過ぎになったら起き出してきた母と半日を過ごす。世の中では子供は学校というものに行くものらしかったが、そんなことをしていたら朝食の支度をするのも、放っておくと昼過ぎのデートの予定を丸ごと忘れていつまでも眠りこけている母を起こしに行くのも出来なくなってしまうから生活に支障が出るはずだ。昼過ぎの外出には同席させてもらうことがしばしばあったが、年の割に小柄なせいか子供が学校に行く時間に母と歩いていても不思議に思われないらしい。父も学校に行っていたが、子供とは行く学校が違うらしかった。三時を過ぎると黄色や青の帽子の群が道にあふれ出してくる。そればかりは苦手だ。細かな仕草から同族なのだと敏感に察知するらしく、母の手に掴っていないと取り囲まれて前にも後ろにも行けなくなる。
 気がつくと山の木々が目の前に迫ってきていた。豪奢な袖をまくり上げてしっかり手をつなぎなおすと母は躊躇もせずに木立へ突き進んでいく。どう見ても道はない。どうと山が鳴った。母が足を止めて一つ足を踏みならすとそれを追うように風が吹いて山の木々をかき分ける。どうだ道が開けただろうと母は満面の笑みで道を示して一歩山の道を踏んだ。
「靴はいらないね」
 草の根に風に落ちた紅葉が積もって柔らかそうな地面だ。脱いでいこうと提案しながら母が振り向いた。山道に裸足は落ち葉が積もっていたとしてもどうにも危ない様な気がしたので無言でいるとちぇっ、と母は拗ねた様子だったが強いることはせずに自分だけ靴を脱いで木の下に並べた。暗がりでよく見えなかったがたぶんいつも町に行くときに履く踵の高い靴だろう。靴の踵は華奢な割に丈が高い。
 満足げに母が頷いて地を蹴った。
作品名:山の母 作家名:坂鴨禾火