山の母
視界の隅に山の端が見えた。首を巡らせて山の稜線を追うと緑の木々がだんだら紅葉に色付いてぎざぎざと切り立つ峰となる。山の上では嵐が吹くのか所々見える山川は、他よりも早く赤い葉を流して下流の裾も血に染めている。ぐるりと巡って今いる川の上流を見ても鳥はいなかった。ただ曲がりくねる川筋を山の上まで追えば追うほど川にかかる木々も手を密に差しのばして流れる水を捕まえようと待ちかまえている。山の上には母の隠れ家があった。峰まで行ってしばらく下ると滝壺があってそこから川へ水を繰り出していた。紅葉はどこまで降りて来たろうか。昨日の晩も折に触れて母は山を赤く染めていたから、一晩のうちに随分赤くなったはずだ。川上の木に母がいた。まだ青い紅葉と赤い紅葉の境目の、黄色くなりかかった色合いのところにある、枝の上で裸足の両足をぶらぶらしている。真っ白な足の下に川が流れていた。母がいることに父は気付いていない。
父はそこまで目は良くないし、第一自分の目が正しいものを移しているのかすら定かではない。うつつと夢の境はどこにあるのだろうなと思った。一人でぼんやりと考えている分には夢もうつつも同じであるが、人と話すときはその人と同じうつつでなければ通じない。昼のうつつに住む人であれば昼のうつつの話をしなければならなかったし、夢にいる魚は夢の言葉を以てしなければならない。昼と夜と、夢とうつつとを跨いで話しかけるのは魔法と同じなのかもしれなかった。そう考えると母は魔法使いであるし、昔話をする父もまた魔法使いだ。父を見る。父はただおろおろするばかりで、川から上がろうとか訳を聞こうとかいうことすら思い浮かばないようである。子供の扱いになれていないのだろうか。幼い頃はどうしていたのだろうなと思いかけて、やっぱりおろおろしていたような気がしたのでそこは昔から変わっていない。父は母とはまだそのころは並んで歩いていた気がする。それくらい古い昔から父は母のそばにいるのに、姿も変えられず殺されもせずに今もなお無事な姿で川に立っているのはすごいなと思った。父もまた魔法使いだ。紅葉も痛まないらしかった。数多の物語を知っていた。そうして姿を変えられたり殺されたりということも未だない。
熱があるなと父が額に手をあてて言った。
「母さんと出かけたのか。それでいっぱい歩いたから疲れたんだろう。山の中を歩いたのか」
「ちょっとだけ」
手が水について息も落ち着いたのか、声が元に戻った。そうかと父は言った。相変わらず自分の目は母に捕らえられたまま、いつまでたっても同じ方向を向いている。ようやく父が気付いて、山の上に何かいるのかと聞いた。
「母さんがいるのか」
声はまたどうやって上げたらいいのか判らなくなっていた。無言で頷く。そうかと父は言って手を伸ばした。母がいる。お前は山の子供で眷属だからと言った唇のまま、婉然と笑っている。お前は山の子だよと未だに言うようだった。父には見えていない。のばしかけた手が山の前でさまよっている。違った。父の手が目の前をふさいだ。何も見えなくなった。山も母も川の景色も父の手に覆い隠される。
「帰ろう」
はじめから父は自分の目をふさぐために手をのばしたらしい。父は相変わらず遠くで何か言っていた。目をふさがれているから距離感がうまく掴めなかったがすぐそこに父はいる。離れていくのは意識だった。眠りに落ちていくときのように、何かを言っているのは聞こえていてもぼうっとしてしまう。鮮やかな紅葉の景色が瞼に浮かんでいた。山の紅葉を母が着ている。そうして山の上から笑っている。
「家に帰ろう。母さんがいないからちょっと寂しいかもしれないが、なるべく春彦といられるよう努力する。だから」
獰猛な笑いではなくいつまでも優しい笑みだ。この後食われてしまうかもしれないと思ったとしても、そのまま胸に飛び込んでいって甘えたくなる。逃げられないよと母は言った。ますます眠りが深くなる。今はどこなのだろう。いつなのだろう。父が抱き抱えるような感触が服の上から肌に伝わってくる。膝から崩れかけたところを父が優しく抱き留めていた。まだ自分は化け物ではない。甲羅も鱗も皮膚の上に生えだしていないと安堵の溜息をついたところで意識がとぎれる。そうして深く眠る。
珍しく夢は見なかった。
*
戻ってからしばらくの間父は勤めている学校の研究室に自分を連れて行くようになったのは、母のいない昼の間、どのように過ごさせるか考えた末の苦肉の策だったようだった。後で知ったことだが、自分が平地に戻ることは想像以上に問題になるらしかった。今まで家の中だと思っていたところも実は母の統べる山の中だったらしい。そういえば子供は学校に行くべきだなとぼんやり思った。そうして自分は子供である。
自分が研究室にいる間、そういう手続を父はしていたらしい。教育系だという父の同僚から随分冷やかされたり心配されたりしたが、とりあえず男の人が多かった気がする。
そのうち学校に行き始めた。父の勤めている学校からほど近い、子供用の学校である。帽子をかぶった集団に放り込まれて初めのうちこそ周囲の子供から好奇の眼差しを向けられたが、日を追うごとに子供は離れていった。妙に優等生ぶったませがき――というのが自分に対する大方の評価らしく、給食の前に手洗い場へ行ったとき、そんなことを言う子供の姿が手を洗おうとして覗いた水の中に写っていて閉口する。母もいなくなったので、口を開くことも少ない。友達は出来たのかという父に、そう言ったら苦笑いされたのが妙に印象に残っていた。級友たちは元の遊びに戻った。自分はすることもないので本ばかり読んで過ごすようになった。互いに互いのことが気にならなかったと言えば嘘になる。時折自分は知らず妙なことを言ったし、自分は自分で同じ年頃の子供を見るのが珍しかったからこっそり相手の様子を窺おうとして、同時に顔を上げて気まずくなることもあった。それでも概ねの生活はつつがなく過ぎる。
相変わらず夢は見た。母といた頃に比べると明らかにその頻度は減っていたが、そんな夢を見ることもやっぱりある。ただそれ以外の夢も見るようになった。死体をばらばらにして山に撒く夢だったり、山の木と獣とを一本一匹順に数える夢だったり、夢を見た後は大体疲れ果てていて、次の日は昼間もぼんやりしてしまうことも多かった。いつも以上にぼんやりしている。そういうときに限ってやたらしゃべりかけてくる子供の、どの辺りを鉈で打てば蝶が飛ぶとかそんなことが判ったが物騒極まりなかったので努めて口にはしない様にした。たぶん須磨がしていたことなのだろう。人が蝶や鳥にならないことは彼らだって知っている。だから思うだけにとどめた。
本を閉じて山上を見る。