山の母
山から戻ってきて知ったのは、自分は魔法が使えることと、外には知らない世界があるということだ。父は夜家に帰ってくるだけの人ではなくて、昼間は教壇に立ったりものを調べに行ったりであちこち動き回っていることを知ったし、出かけていく先々にはまた子供でも大人でもないたくさんの人がいる。真昼間から薄暗いところに出入りしていた身からすると怪獣好きの集いは健全なもののように思えた。怪物はプラモデルで自ら怪物になることもないし、怪物に食べられてしまうこともない。化け物になろうとするときは熱が出て心臓が不規則に脈打って身体は軋みを上げることを知っている。鱗が生えるだろうか。嘴が生えるだろうか。水掻きは常にあるような気がした。悲鳴はもはや上がらなかった。痛みが募ると恍惚となる。そうしてけけけと笑い出す。
初めは父の研究室にいたが、用がなければ人のいないところで過ごすようになった。研究室の棚から本だけ借りると山へ行って読む。住んでいるところは海からは遠い。母から離れても遊ぶのは一人であった。広い世界があると知っても手が届くのは身近な山の異界である。本を借りて行くときに箔押しの全集の一冊が欠けていることに気付いたが、父は自分でなくしたものと思っているらしく何となく言いそびれている。山には遊歩道があるにはあったが母が壊すのか荒れ果てて、行く人も稀な忘れられた山、あれは坊主岳あれは板碑山、遠倉の滝、秋野台、遊び歩くときには人目を気にしないでも良かったから木の枝を踏んで飛ぶのも竜の背に乗って流れを下るのも自在に出来る。借りた本は油紙に包んで水を防いだ。たまには本を置いて水底の魚と遊ぶ。
母と過ごした季節が過ぎ去ろうとしていた。山の紅葉ももう枯れかけて山頂では雪が降るようである。自分は人であるのか化け物であるのか未だに結論が出なかった。このことに関しては誰も答えをくれない。
山頂から吹き寄せる風が冷たくなって、山の生きるものがすべて眠ったような静けさが満ちて、須磨が死んだあとを弔うように季節が流れ去っていった。
そろそろ夕ご飯を作る時間だ。
行ってくるよ須磨、と誰に言うともなしに呟く。
「……。」
言葉を吐いたあとの息が白く濁る。
自分は父の本を読んでまどろんでいる。母の血がその手には流れている。鳥は去って蝶は山のどこかに隠れた。魚は呼ばないと出てこないから、残っているのは自分ばかりだ。いつか結論を出さなければいけない。そうして朝と夜に里へ通う。
遠くに行こうとすると耳鳴りがした。人に混じれば皮膚の下が疼いた。川に沿って里へ下りながらふと、須磨の魂は自分が食ったのだから行ってくるよと言うのもないかなと思う。須磨はここにいるかなと思った。須磨を食ったのだから須磨は自分の中にいるはずだ。けれども寂しがった。朝夕の夢に母は見えたがやっぱりそれは夢であるし、父は相変わらず忙しい。他の子供ともなじめずじまいで結局誰もそばにいない気がした。布団の倒れ込むときには決まって母の夢を見る。大抵は秋の山を着て、母が笑っている夢である。裾野には緑頂には化粧雪、白い胸元に近付くほどに山は紅葉の色を深める。血の色をした唇が笑う。着ているのはあの薄衣であると思うが山の紅葉と区別が付かない。須磨はどこに行ったのだろう。自分が里に慣れるまでいますこし時間が要る。
白い小鳥が山へと飛んだ。春彦春彦と鳴いた気がした。
了