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山の母

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 なぜ父が悪かったのかと言うのか判らない。首を傾げていると父はもう一度悪かったと呟いて髪のある辺りをかきまわす。怖い夢をみただろうと言った。なぜ知っているのかと思った。怖い夢とは、たぶん夜見る夢のことなのだと思う。母に殺される夢なのか。あるいは母とまぐわう夢なのか。ぼんやりしたまま父の方を見上げてはたと言葉が立ち止まる。どうして父は、自分が夜夢を見ていることを知っているのだろう。父は繰り返し悪かったと言った。知っていたのに引き離さなかったのが悪かったと言って泣くようだった。むしろ父の言葉は恋人を取られた男の言葉とそっくり同じで、恨んだり嫉んだりするならまだしも、なぜ泣いているのだろうか。父は悪くないはずである。たぶん何か勘違いをしている。いつも殺されるとはいえ夜な夜な枕を蹴って母とまぐわっていたのは自分で、現実には他の男とまぐわっていたのだとしても、夢では自分がまぐわっているのだ。自惚れと言うのかもしれない。それでも父は悪かったと言い続けている。
「春彦、春彦は母さんに」
 言い澱んで何でもないと言う。代わりにひどいことはされなかったかと聞いた。殴られたり蹴られたりと言うのには首を振る。それをしたのは母ではない。そうかと父は言って、じゃあ見たかと聞いた。
「寝部屋に、男を連れ込んでこう――」
 やはり途中で止まった。言わんとしているのはたぶん男とまぐわうとかそういうことだろう。言い辛そうにしているので代わりに頷く。そうするとようやく父が腕を緩めた。近くまで来て父が逃げ出さないところを見ると、自分はまだ人の形をしているらしい。溜息をついた。相変わらず父は悪かったすまなかったと言っている。
 父は。
 どうしてそんなに謝るのだろう。
「お母さんもう帰らないの」
 ぼそりというと父は見られているのに気がついたのか、父が笑った。無理をしているから表情が歪んで泣き笑いの様になる。
「帰ってこないの」
「多分な」
 元から母さんは自由な人だったから、手から離れてしまった風船みたいにもう戻ってくることはないなと言ってまた元の寂しげな顔になる。このときになってようやく父は母を失ったことを悲しんでいるのだと思った。誰かに取られてしまったとか姦通を咎めるではなくただひたすらに悲しんでいる。自分が戻ったことと、母を失った悲しみはまた別のようだった。何度も繰り返していた悪かったという言葉はやっぱり自分に向けて言った言葉であるように思えたが、なぜ父が悪かったと言うのかが判らないままだ。帰ってくるとしてもそれは母さんの心次第だからと父は言う。論点は先取りしたまま、中に充当する議論が見えない。本当はそこにあるのに自分にだけ判っていないのかなと思って父を見ても、父は答えを言うだけだ。根気よく同じ問いを繰り返す。問題の所在が父には見えない。
 二度、三度、どうして謝るのかと問い続けるとようやく重い口を開いてぽつぽつ漏らした。
「留守の間、ちょこちょこ母さんの知り合いが来ただろう」
 父さんに言わなかったことを怒っているわけじゃあないんだよ、と言って山の上を見た。
「母さんはな、天女というか何というかな、常にたくさんの男友達がいたんだ。それは春彦も知っていることか。そこで母さんがしていたことは、春彦にとって良くないことなんだよ。悪かった。気付かなかったわけではないんだよ」
 父は言った母の行為はどれを指すのか判らない。昼間から母と出歩いていたことだろうか。おやつや食事に誘ったことだろうか。そうしてその後まぐわって、山に連れて行くということだろうか。山では須磨に殺されかけた。須磨は母に殺されて、朝ご飯の皿の肉になった。身体が熱い。ぼうっとしている。引いていたはずの痛みがちりちりと肌を焼いた。甲羅があるのかもしれない。父の目からは見えない皮膚の中に、魚の鱗や嘴がぞろぞろ生えだして外側だけ元の人のまま、元の自分は壊れていっているのかもしれなかった。それともはじめから、今まで気付かなかっただけで自分は人の皮をかぶった化け物だっただろうか。はじめ自分は人間だった気がする。いくら世間からはずれていても、化け物だと思ったことはなかった。鬼も河童も父が読む物語に住む恐ろしい住人というだけで仲間だとは一度も思ったことはない。肌を撫でると鱗が皮膚の中からのぞくような気がした。指を開くと手の股の一つ一つに水掻きが生えているような気がした。それを見る目も腐っているのかもしれない。母とまぐわう夢ばかり見ていた報いだろうか。紅葉の触れた痕が痛い。紅葉の赤い手をはたき落としてくれた水を浴びることも出来ずに父の腕の中で、父に聞こえない声でこっそりと絶叫する。どうしたわけか声は出なかった。出ても通じないなら意味がない。声を張り上げて鳴くたびに川の水がざぶざぶ荒めく。ふと我に返って父の服が濡れるなと思うと、波がやんで、飛んでいた飛沫は父を避けて落ちた。声が別のところにつながっているらしい。こことは違うどこか、父の居る現実とは別の空を隔てたどこか、場所は知らないが現実でなければ夢であるのに違いない。喉が詰まった。水の中では息が出来たのに喉が苦しい。喉に息が引っかかってけけとなく。
「春彦?」
 不審に思ったのか父が声を上げた。空気がない。否空気は辺りに満ちている。肺が大気を受け付けない。過呼吸なのか。息が出来ているのを確かめようとする。空気より水だ。思考が追いつかない。喉が接続不良のようにばりばり音を立てるようで膝は崩れた。父の手からずり落ちて掌が水の中に浸かる。心臓が脈打つ。心は波打つのだろうか。心と魂ではどこが違うのだろう。祈れば死後の魂が救済されると言う人もあるが、自分はその神様を信じていないのでたぶん救済もされないし、救われるような魂もない。そもそもすくわれるのは足かもしれなかったし、本当はそんな神様などいないのではないかと思っているから、自分から見ればその神様にも魂はない。母の方がずっといるという実感があった。だから母の方がこわい。
 指の間にも感覚があって水が流れてゆくのが判った。いくらか呼吸が楽になって辺りを見回す余裕が出来たのは水に浸かったせいかもしれない。水掻きはえらにもなるかなと思った。肩で息をしているのに、空気を取り込む大半は水の中からというのがおかしい。熱があるのかもしれなかった。水の冷たさが心地よかった。そうして熱が流れ去ったら、自分もまた流れてゆくのかもしれない。生まれなかった子供は水になった。水になって川の底でぷつぷつ泡を吐くのである。
作品名:山の母 作家名:坂鴨禾火