山の母
鳥は誰かの名を鳴いているようだった。なんと鳴くのか寡聞にして知らない。時鳥なら東京特許許可局、てっぺんかけたか、山鳩ならててこくうと文字面では知ったものの実際に聞くとなると判らなかったし今鳴いている鳥はそのどれでもないらしい。あめふるとも鳴いていなかった。見上げると高く飛ぶ鳥の片方の羽は見えなかったが、白い小鳥で所々斑が入るらしい。風にあおられて向きを変えるときに見えた片方の羽は茶色だ。白い小鳥など山の中では目立って仕方がないのに今までどこに隠れていたのだろう。鳥がまた誰かを呼んだ。鳴くのは鳥の名前だろうか。違う様な気がした。聞き覚えのあるような名を呼んでいた。誰であったかは判らない。山の家に住んでいた人を懐かしんで須磨須磨と鳴いているのだろうか。須磨が鉈を打つと鳥や蝶が飛んだそうだから鳥に知己がいてもおかしくなかった。それなら手伝ってやりたい。そう思って空の中を探す。
母はもう追ってこなかった。立っている間にも紅葉は足の間を流れていったがもはや魔法も尽きてゆくのか肌が乾いたときのようにぴりぴりするほかは痛みもない。鳥はすっかり見えなくなっていたが、大気を切り裂いて鳴く声はせせらぎのする川の中に立っている今も聞こえた。川からあまり離れないよう、鳥はぐるぐる飛んでいるのか声は近くなったり遠くなったりしながら変わらず誰かを呼んでる。春彦春彦と声が聞こえる。ああ自分は春彦というのだったなと今更のように思い出した。ふとその声が聞き覚えのあることに気がつくと、にわかに外気が寒くなる。秋も深まる頃だった。春彦の名を呼んだのは人の声だ。声が聞こえる。母の声ではない。鳥の声は今なお聞こえた。その声も誰かを捜している。流れてくる紅葉はもう痛まない。見ると内股に張り付いて、血を流したように見えたが剥がしてみるとただの紅葉で皮膚が爛れた痕もなかった。指先から離れた紅葉が川の中に落ちて流されてゆく。呼ばれるがままに歩き出す。
声は下流から聞こえてくるようだった。川に立つ姿を隠すように、川からは霧が立っていた。紅葉がその中に消えてゆく。霧をかき分けながらぼんやりと見える岸辺の木立の色は青、松の緑に入り交じる広葉樹の葉も少し黄ばんでいるものの未だに夏の面影である。松があって低く生える木があってまた松があって、それを三度ほど繰り返したあと霧の中に橋があった。
「春彦」
父の声だった。いつの間にか鳥の声は消えている。
呼ばれてぼんやり橋の上を眺めた。父の声はそこから聞こえる。今はいつなのだろう。まだ月は出ていない。だから時刻も月日も判らなかったが、日も暮れきらない夕刻である様な気がした。父が帰るにはまだ早い時間だ。どうしてこんなところにいるのだろう。よれた灰色の背広に冴えないシャツを着込んでいるのはいつもと変わらない出で立ちだったが、衣服のくたびれ方がいつもにも増して深くしわを刻んでいるように見える。講義資料を詰め込んだ鞄は今日は持っていないらしい。
「上がってこれるか。春彦。無事なんだな」
「……お父さん?」
喉から漏れた声は思ったよりかすれていた。元から声量は出る方ではないし、辺りに水は有り余るほどあるが汲んで飲むまでの余裕はない。あまりにも呆然としていた。水筒の水が辛うじて残っていたことを思い出してもたもた背の荷を取ろうとすると、待ってろすぐ行く――と父が橋の上から姿を消す。程なくして父が手前の岸に現れた。待ってろ待ってろと繰り返し叫んでざばざばと水の中を走り出す。
「今行くから」
必死のようであった。どこか話に夢中になって駆け出すときの様相に似ていたが、熱で浮かされたようにふわふわしている顔が、憔悴しきった悲しい顔になっていることがいつもと違う。会えたのがそんなに悲しいのだろうか。父の服は中程まで水に浸かった。見る間に飛沫が乾いた布を食う。腹の中から生まれたという事実があるからどんな子供も母というものはあるはずだったが、父とはただ父よ我が子よ思うだけのつながりである。所詮自分と父は互いを互いに父だ子だと思い込んでいるだけにすぎない。自分が父を恋しいと思うのは、自分を知っている唯一の大人であるからというだけにすぎないのに、父は答えも聞かないうちに走り始めて今も川の中を走り続けている。どうして父は走るのだろう。春彦と誰かが呼んだ。父だ。やっぱり父であるように思える。そんなことをぼんやり考えていると父の大きな手がぐるりと回って抱きしめた。人違いではないのかと思った。
嬉しかったがかすれて声は出ない。父が本当に会いたかったのは自分ではなく母ではないか、自分は母の子だから、父は母に恋をしているから、半分母の血を分けた自分を母のにおいをかぐのではないのか。川の中で父は自分を抱いたまま立ち尽くしていた。抱きしめられて身動きの取れないまま居心地を悪くしていると母さんは、と父が言った。
「……。」
「母さんは帰ったんだな」
父の胸の中で頷く。父は母のことをどれくらいよく知っているのだろう。他の恋人のようにめあわせてまぐわってそれでもなお無事でいるからほかの恋人よりはよく母を知っているはずだ。父は殺されていないから恐ろしい母を知らないのかもしれなかったが、却って殺されないのは他よりもよく母を知っていて、母の手からうまく逃れているからかもしれない。そう思ってふと自分も母とまぐわったなと思った。夢の中での話である。まぐわって殺されるのはいつも見ている光景だ。母が恐ろしいことを父は知っているのだろうか。自分に母の面影を見ているからと言って自分が父が嫌いなことにはならない。父は好きだった。母の他のどんな愛人よりもずっとましだし、唯一自分の名を呼ぶ他人である。春彦と呼ばれるたびに心臓が乱れ打つのは、けして熱のせいばかりではない。けれどもそれはただ名前を呼んでくれるそのことに尽きていることなのかもしれなかった。果てのない片思いだった。父に、母のことが好きだったのかと聞くとわずかに頷く気配がして、でも無事で良かったという声が聞こえた。
「母さんは元々一つところにとどめておけないようなひとであったから。だから母さんがいなくなるのは仕方がないのかもしれない。春彦はな、どちらかというと母さん似だ。目が覚めたら春彦がいないから、これはまさかと思った。だがな春彦。それでもお前は私の子供だ」
「本当に?」
「本当に」
無事でよかったと父が言って長い息を吐き出した。その息を置いて、まるで勘付かなかった訳ではないと言った。例えばと聞いて父は答えに窮していたが、やがて答える代わりに悪かった――と論点の先取りをして一つ呟く。