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山の母

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 ここで押し問答をしているのはひどく退屈な気がして、手首を掴んだまま手を引く。指の一本一本が手に張り付いて左右に振っても取れないことを確かめると、今度は強く引いた。引く手に従って腕はしばらくするするのびたが、やがてぴんとなってのびるのが止まる。そこをさらにぐんと引いた。引きながら一瞬、一度強く引っ張るとくるくる巻き取られてゆくコンセントの収納を思い出してあまり強く引っ張ると今度は手を緩めたときに逆に手に引き込まれてしまうのではないかと心配したが、引き込まれるよりも先に引かれている方の腕がぶちぶち音を立て始める。おそらく底の方で絡みついた何かが引く手に耐えきれずちぎれている音が鈍い振動になって腕を伝わってくるものらしい。草を引き抜くときに広く張った根がちぎれながら抜けてくる音に似ている。手の付け根には別の手がいるはずだった。峰の道で追いかけられたときと同じであれば、手が抜けると同時に数多の手が追いかけてくるはずだ。もしその手を、うまくかわして上に乗ることが出来たら駆けるよりよっぽど早く川を下れるかもしれない。そんなことを思った。うまく行かなかったらそれはそれでいいような気がする。
 息苦しさはなくなっていた。母の側でぼんやりと生きて死ぬなら水の底でも大した変化はない。水の底は姫神のほとである。夜ごとの夢に見る閨の光景も母の子宮に他ならない。今することはそこから逃げ出すことだ。手を引く。根を引きちぎって抜く。いやだと手が言ったような気がした。魚の言葉よりもはるかに小さい。
 ――こわい。
 溜息に似た呟くような声だ。どこから響いてくるのか知らない。強いて言うなら耳の奥底にまで染みた水がかすかに震えてそんな声を紡ぐ。手を引く腕は緩めなかった。ただ言葉を乗せずに息を吐き出す。
 ――生まれなかったんだ。生まれていないんだよ。どうやったら外に出るのか知らないのに、どこに連れて行くの。
「外」
 息を吐いてぐいとまた引く。
 生まれないというならこの手を引いて、山の外まで連れ出そうと思った。手は掴んでいるから後は引くだけである。遙か天井に水面が見える。あれを突き破れば外気はそこだ。水の外なのである。見ると子供の姿は消えていた。代わりに赤黒いものが子供のいた辺りを漂っている。魚もいなくなってしまったようだ。細い手だけ残っている。この手は人になれなかった。なる前に死んでしまったしそもそも魂があったかどうかわからない。魂を命と言い換えても同じことが言えた。とにかく人になることは出来なかった塊なのだ。須磨の肉の味を思い出す。体が熱を帯びてぐらりと揺れた気がした。目眩ではない。感覚が皮膚を通り越して水にまで及んでいるような気がする。
 水を蹴った。腕を掴んだまま一気に水の天に近付く。水底で最後まで腕に絡んでいた根がぶちぶち引きちぎれるような音がして、見ると水の底から無数の手が浮かんでくるところだ。その手の先駆けとなって水面を割った。同時に腕から手を離す。細かな破片が大気に散ったのを最後の足場にすると宙に飛んで、ねえ――と背後に叫んだ。
「外だよ」
 空を飛ぶのはさっきやった。山を駆けるのも昨日やったばかりで覚えている。時折水を蹴って派手に水をまき散らしながら風を繰って霧の中を進む。手の群に形を与えねばならなかった。青白い肌の腕の魚は人になれなかったままだから、何か別の新しい形を与えなければいけない。走りながら必死に脳裏にある物語の本を繰る。腕は川の底に住んでいた。滝壺の底からのびていた。表には見えない伏流に住んでいて、滝壺は姫神のほとだった。ほとから流れ出るのは経血だったが似たような場所からはしとも出る。しとからは魚が湧くそうだった。須磨がそんなことを言っていた。鱗があるもので山から流れるものを、父の読む物語で聞いたことがある。三輪の山の主とはやや違う。水の中に住んで鱗のあるもの、竜、と言った途端背後で何か跳ねるのが聞こえた。霧が薄れてきて真っ赤に染まった紅葉の腕が、切り立った崖の両岸からのびているのがかすれて見える。振り向くと遠くの岸に母が立っていた。川に向かって木の枝を投げたらしい。
「竜になれ」
 思いつくまま魚の群に早口で言った。一刻も早く逃げなければならない。
「角で山を割って流れ出してゆく、鱗の数多ある竜になればいい。爪があるだろう。それは集まって牙になれ。鬣は流れの水草に倣え。竜に、」
 紅葉の枝が流れにもまれながら流れていった。流れの先に柵が出来ていて、そこに先程の紅葉が引っかかっている。手の先を走りながらそれを払うと払う手に絡まって熱く燃え始めた。悲鳴を上げる。濡れても冷めない。
「お前は山の子だよ」
 遠くの岸から勝ち誇ったように母が言う声が聞こえた。
「痛むかい。痛むだろうねえ、だって皮膚が溶けて水掻きが生えるんだもの。嘴が生えて、皮膚が黒ずんで、甲羅か鱗みたいなものも出来るかもしれない。お前は水と相性がいいみたいだからね。それでも私の子供だからかわいがってあげよう。戻ってきたらよく効く薬を塗ってあげるよ。そうしたらすっかり元に戻るから」
 痛むのをこらえて背中に手を回す。ほらもう指の間に水掻きが生えてきているじゃないかと言う母の声に振り向かないで、荷物の中から水筒を出すと蓋を取って紅葉を洗い流した。水なら足下にいくらでも流れていたが、腰を屈めている余裕はない。立ち止まるのを期待していたのか母はちっと舌打ちをした。須磨の奴、春彦が水気に強いのを隠していたなと言うのが聞こえた。
「水筒まで用意して。春彦、そんな体で逃げられるかい。帰るったってどこへ帰るつもりかねえ。お父さんお父さんって懐いていた男がいたが、お前はすっかり山の子なんだよ。私の子供で、山の眷属なんだ。常の人の目にはばけものか。それともそこまで至らずに山に溶けてしまうか」
 じきに目眩が来るよと言って母は鼻を鳴らした。だんだん身体の統制が効かなくなってくる。後から追いついてきた手の群が紅葉をはたき落とした。魚はもう手の姿ではない。水との境は定かではないが、角があって牙があって水草に似た鬣と、数多の鱗を靡かせている。竜だった。背に捕まろうとして心臓が早鐘を打つ。乱調を打つ。あっと言う間もなく足が水を捕らえそこなって川の中に落ちた。流れに混じる竜の背中を突き抜ける。竜の形は定かではない。きっと川の流れなのだろうと思う。それが自分の目には竜に映った。不思議である。ただの水の流れのようである。けれども呼ぶとわずかに振り向くような気色を見せた。流れの中で身を丸める。
作品名:山の母 作家名:坂鴨禾火