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山の母

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 手も足も深いところまで沈んでいった。水面に浮かんだ泡もこの魚が吐くのかと確かめる前に水面は遠くなっていった。霧が湧いていた。空気の中を水の粒が漂うものばかりが霧ではないらしい。水の中で、空気の粒が細かく撹拌されて広がるのもまた霧である。そんなことを思った。上下の感覚がなくなっている。空気の粒が上がっていく方が天で、手が吸い込まれていくのが地で、底で、腕の先を見ると本当に底が見えない。深くなるほどに魚影は散り散りになっていったが、掌は底の方へ沈んでゆく。だんだん息が苦しくなってくる。肺から空気が抜ける。魚になれば苦しくないのだろうか。そも魚にはなれるのだろうか。魚に嘲笑われたことを思い出して急にむせると息がさらにごぼごぼ抜けて、息苦しさの度合いを増した。どうやら自分は魚にはなれないらしい。
 だから嘲笑っていたのだろうか。
 掌から手を離そうとしたが、白い手の方は放す気はないのか、まだ血の通う手に冷たい肉が絡まってくる。この手は自分を冷たい水の底に引きずり込んで殺して、一体なにをしようとするのだ。うからを増やしたいならもっと別の場所があるように思える。引きずり込まれるままに、眺めていると水の底からいくつもの手がこちらに向かってくるようである。死児はかくまでいるものらしい。峰の道でも似たような光景を見たなと思った。今度は逃げるのではなく引きずり込まれる。
「ねえ」
 口から泡が出る。呼びかけてわずかに手を引く掌が振り向いたような気がした。なにをどうしたいのか、引きずり込んでどうしたいのか、訊ねている目の前を白い魚が通る。追って深くまで潜ってきたのか生白い半目で人が呟いているところを睨んで唇から空気の玉を一つ投げた。慌てて口を開いて受け取ると、ないじゃないかと言うのが聞こえた。泡を噛むとぶつぶつ低く何か言う。
 生まれてよかったじゃないかとか、生まれたかったのにとか誰が殺したんだとか、泡の中に詰まっていた言葉は好き勝手なことばかり言うので、おまえは生まれてもいないじゃないかと息を吐き出すと魚は不服だったのか唇を歪めてまたぶつぶつ言う。
「仲間が欲しいの」
 それでも食いつくのは空気が欲しいからだ。
「おまえたちのしていることだって、自分を殺そうということじゃないか。わかっているくせに」
「知ったことか」
 近くに顔を寄せて魚が答えた。
「生まれたことなんてないんだぞう。水の底の子供、会っただろう。あいつだって同じ。あいつは生まれたが、生まれていないのと同じ。おまえ、随分良い暮らしだったんだろう。外へ行ったり、うまいもの食べたり」
 そこまで言って、おまえ少しくさいなと魚が顔をしかめた。表情がないように思っていたが顔をしかめることは出来たらしい。
「生臭い。何か食った」
「食べた」
「何」
「肉」
 魚の動きが止まった。
「山の肉」
 手が引く速度も落ちた気がする。やがて止まった。尾の代わりに突き出た不格好な足で魚が水を蹴りながら追いついてきて口を開く。魚の、赤子の頭が目の前に迫った。
「山の何の肉だ」
「人」
 須磨の肉だ。魂が隠れているはずの身体を切り刻んで食った。魂など見えないが、あると仮定すればそういうことになる。動きの止まっている手を胸の辺りまで引きずり上げると水を蹴って天地をなおした。手が生えている方が下、泡が上っていく方が上、見上げると水の天は水面に巨大な鏡をはめたように揺れながら水の中の様子を映し出している。生意気そうな子供が映っていた。自分だろうか。よく目を凝らしてみると昨日の子供だ。魚を侍らせてぷつぷつ息を吐いている。魚は彼の眷属らしかった。手をどこかになくしてしまったのか水面には見えない。食ったのか、と魚が言った。声は怯えていて気が引けたように遠くで泳ぎ回ることしかしない。
 力の抜けきった子供の腕を、掴んで顔の前まで上げると水の中に立った。
「帰る」
 山の中から帰るのだ。幸いにここは水の中だ。
「流れを下れば平地に出るんでしょう。だからこれからそれを下る。放して」
「いやだ。おまえばっかり」
「うるさい」
 生臭い息を吐くと魚は踵を返して逃げ出した。体の軽さはそのままに、立つ場所だけ定かに踏みしめている。今なら自在に動ける気がする。帰るのだ。ようよう決心がついた。いつかうたたねでまどろんでいても、いつか、また恐ろしい夜が帰ってくるのかわからない。須磨を持っていた鉈を研がされて、手や首や足をはねられるのは嫌だった。夢と結局同じなのだ。何度見たのかわからない夢は、やっぱり夢のままでよいような気がする。不満げに魚が泳いだ。水面の子供も退屈そうに眺めている。彼らにはわからないことかもしれない。須磨の肉の塊をかみ砕いてみても魂などどこにも無かった。かみ砕いたから消えたのだ。死んでしまったから魂はない。死者に身体はあるのだろうか。生きているから何一つ理解できない。それとも自分がわからないだけで、死者や魂を知っている人がいるのだろうか。それはうらやましいなと思ったが、やっぱり死者のことはわからないのでまだ信じられない。
「帰るのは水の中じゃないのか」
 目があったのに気付いて魚が遠くでごぼごぼ言った。まだ逃げたわけではなかったらしい。
「夢で見ただろ。山深い森の、遠い滝の、暗い滝壺の中は姫神のほとだ。子供がかえる場所はそこだ」
「麓にはお父さんがいるから、帰るところはそこだよ」
「父か」
 卑猥なことを魚が呟いたが無視を決め込む。死んでしまったものには会えないとして、魚や、子供が見えるのは何故だろう。生まれそこなった子供の腕や目玉が乱舞する水の中に、死んでしまった須磨は姿を見せない。来ていないのかと魚に聞くと、誰だそれはと言った。
「姫神の情夫か」
「違うよ」
 否定しきれなかったがとりあえず否定しておく。
「一緒に帰るって約束してたんだ。来るかな」
「まさかそいつを食っちまったんじゃないだろうな」
「そうだよ」
 今度こそ魚が逃げた。反対に手は水に押されてぷらぷらしている。その手を口元まで持ち上げて、受話器に言うようにもしもしと言った。聞こえているかどうかは定かではない。
「逃げよう」
 たぶんおうとは言わないはずだ。手は手を掴んだまま揺れている。
 魚も子供も死んでいて、少なくとも生きてはいないから、聞こえたとしても言葉の意味が飲み込めないはずだった。案の定返答はない。それでもしつこく生きたかったんでしょうと話しかける。返事はなかった。けれども手は離さない。離すつもりはないようである。ただそばにいて欲しいのかなと思って手首を握り返すとわずかに硬直するのがわかった。怯えている。なにがそんなに恐ろしいのだろう。
 逃げたくないのと聞くと、かすかに手首が横に振れた。
「いやなの」
「……。」
「外行きたくないの」
作品名:山の母 作家名:坂鴨禾火