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山の母

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 山に行こうか、と何事もないかのように母が言ったときのことを覚えている。

 自分はまだそのときは子供で、母の子供で、そうして人の子供だった。母は台所にいて何かを切ったり刻んだり、鍋の蓋がことこと鳴って何かを煮る音が時折、台所につながる戸口を通じて居間に流れ込んでくる。居間に寝そべって本を読んでいた自分は、甘い匂いにつられて本を抱えると戸口から台所を覗いた。人参が煮えた匂いだ。だって春彦は甘い人参じゃないと食べないから、といつか台所を覗かれた母がそう答えるのを聞いたが、むしろ母が甘くない人参を苦手としているからだろうと自分は思う。母は外で出された甘くない人参には決して手をつけない。自分以上に子供だった。少なくとも年相応の落ち着きとは無縁である。不思議な風を吹かせるような妙に軽やかな足取りで、町へ行けばたちまち鮮やかな彩りの紙袋を両手にさげて、買い物して疲れちゃったおやつ食べようか――と小首を傾げて呟いたし、行き交う人の足早な巷に行けば、少し目を離したうちに見知らぬ人影と腕を組んで歩いていたりする。いつも見るのは後ろ姿だけで、母の隣に立っている人の顔は定かには見えなかったが、いつも七色の風が吹いているように、母の隣に立つ後ろ姿は見るたびごとに、背が高かったり低かったり、ツイードを着た老紳士だったかと思えば擦り切れたズボンの青二才に変わっていたりする。いずれにしても父ではないことだけは確かで、子供の自分は母にもらった飴を舐めながら、声をかけるのだけは避けて、母と、母の隣に立つ人の姿を見送るのが常だ。同じ人と二度連れだって歩いているのは見たことがなかった。一体母の隣を歩いていた人々は、いつ、どこへ消えてしまったのだろう。
「もう少ししたら野菜も煮えるから」
 物思いにふけっていると母が言った。
「それをお弁当に詰めていこう。お茶も煎れたからそれは魔法瓶ね。お父さんの分は別にお皿の上に置いていこう」
 そう言って味見をした。見ているだけでもう三度目だ。味見のし過ぎでお腹がいっぱいになってしまわないのだろうか。手を止めて眺めていることに気がついた母が調理の手を止めて、いいのと小さな声で言った。春彦は出かける準備をしておいで言ってまた鍋の蓋を開ける。
「おやつとね。歩きやすい靴とね。上着と雨具。山に行くからいろいろなものが見られるよ。それからよく見ている本、あれも持って行きなさい。大事なものは全部リュック」
 ただし持ちきれる範囲で、と付け足して料理の続きに向かう。母の言葉に従って自分も使いなれた鞄に雨具を詰め込みながら、母の荷物はと見ると見当たらなかった。弁当にする重の包みが一つあるきりだ。
「上着と電車入らないよ」
「どっちかにすれば入るでしょ」
 荷物を見て母が言う。
「よく考えて入れなさい。帰らないから」
「帰らないの?」
「そう。うちにはもう戻ってこないから」
 春彦が大事に思うほう、と母は言葉を切って台所の奥に消えた。野菜の煮える音がくつくつ聞こえる。人参の匂いはもう失せて、今は別のものを煮ているらしい。鍋の中を覗いてみたいと思ったが、なんだか蓋を取ってはいけないような気がして台所に背を向けると荷づくりに戻ることにする。
 大事なものをすべて詰めなくてはならないのに、いつも使っているリュックサックにはどうしても電車の模型が収まりきらない。縦にしても横にしてもはみ出てしまって困り果てて台所を見ると、上機嫌で歌う鼻歌が漏れ聞こえる。うちにはもう戻ってこられないらしい。
 荷物には上着を詰めることにして、しかたなしにあきらめた電車でしばらく仮想の線路を走らせていたが、壁際まで電車を走らせるとすることがなくなってしまって部屋の隅に置いた小さなリュックを眺めた。上着のせいで電車は入らなくなってしまったが、もう一つ持っていくことにした本は背中に何とか納めることが出来たのが救いである。本は父の本である。父は箔押しの童話集を何冊も持っている。
 父と母の関係があまりうまく行っていないらしいことは子供心にも想像がついた。父と母が目の前で喧嘩をすることはなかったが、父と母が家の中ですれ違うことが滅多にないという事態も異常は異常だ。気ままで気まぐれな母とは違って父は夕飯時をだいぶ過ぎた辺りに帰宅して、一人で膳に向かっているのを見る。夕飯だけは父との約束ごとがあるかのように母は準備をしていたが、父が帰る頃には母は夜の街に繰り出して、留守にしていることが多かった。大体の場合自分が父の姿を目にするのは子供の自分がもう寝ようとしているときで、母さんは留守か――と顔をあわせるたびに、決まり事のように言った。父の帰る時間は遅い。時に深夜に及ぶ。休日は休日でどこかに行ってしまう。父は学者であるらしかった。お父さんはお母さんに会えなくて寂しくないのと聞くと、父は春彦はいつも母さんと一緒だものなあ、とうらやましそうに言った。
 ――母さんは、そこまででもないんじゃないかな。
 いつかそんなことを言っていた。引く手数多だからと父が呟いて天井の隅を眺め上げるのと一緒になって覚えている。しきりに頭の後ろを掻いているのは父が何か隠し事をしているときの癖だ。だから印象に残っている。
 ――本当なら会えないような所のひとを、ちょっと意地悪してね。
 意地悪というか工夫だと言いながら、やっぱり天井を見ている。台所近くの天井の隅だ。四角く枠が切ってあって、そこから天井裏が覗ける。父はそこを見上げたまま、ぼそぼそ何か呟いて慌てて辺りを確かめた。たまに母の男が家に上がり込んでいるときもあるがそれはよほど稀なことで、家にいるのは父と自分と母だけだ。そこにもやっぱり約束事があるのか母は滅多に男を家に連れ込まない。なので父は自分を見た。自分はその時は衣を奪われた天女の話を思い出していた。童話集なら父の書斎に山積みである。文字ばかりの本だったがひらがなは多い。漢字にはきちんとルビもある。その本が荷物にきちんと収まっていることを確かめてから、もう一度紐を結びなおしてそれから母を呼びに行った。台所には母の姿はなくて、脚立でも出していたのか納戸の方で音がする。
 鍋の火は消えているのに余熱があるのかまだことこと鳴っている気がした。蓋を開けて中を覗いていると台所の入り口から母が顔を出してもう行こうよと一言言った。母は薄い上着を羽織って前は止めずにひらひらさせている。紅葉した木の葉を幾重にも重ねて生地を成したかと思うほど、複雑な幾何学模様を幾色も重ねて所々埋め残したように肌の色が覗けた。
「それだけ?」
「そうね」
 これやっと見付けたんだよと誇らしげに広げた母の腕の中には何もない。しばらくしてどうやら上着のことらしいというのが判った。確かに初めて見る服である。天井裏に隠してあったんだと言って、しばらく袖の裏側を見たり裾を翻したりしながら遊んでいるようであったがようやくそれにも飽きたのか、行こうと言って母は小さな包みを手に持った。中身は弁当を詰めた重にしか見えない。荷物はどこにしまったのか不思議である。上着の下にその他の細々したものはすべて入ってしまったのだろうか。片手に重の包みを軽々持つと、空いた方の手で自分を攫った。
「行こう」
 どこかで声が聞こえる。
作品名:山の母 作家名:坂鴨禾火