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山の母

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「……魚か、まあそうかもしれないね。じゃあ魚として、春彦、魚は普通あんなところを泳いでいると思う?」
 首を振る。そうだろうと母は言った。
「大抵の魚は水の中にいるね。ということは今出てきた魚は普通の魚でないんだよ。あれはもっと別のものだ」
「じゃあ手?」
「手も泳がないだろう」
 夢の中では魚に混じって手も泳いでいた気がするから不思議ではない。しかしいくら夢と現実の境目が曖昧だったとしてもそれは言わないに越したことはなかったし、母にとって夢と現実は違うかもしれない。何にせよ夢は一人で見るものだった。夢の中で本当に誰かと会っていても、何か悪いことでもしたように黙って時折顔を見合わせて笑いあうのが限度だ。魔法はよく見えないから魔法でいられる。それと同じだ。ましてや夢は愉快な夢とも限らない。
 峰からの続きか道端に寂しく転がった地蔵を母は指でぱちぱちはじいたりして考えをまとめようとしているらしい。大した力を入れていないのか、石造りの地蔵の頬は丸みを帯びたまま、欠けることなく笑っている。仏というものはあまり好きではないがこの地蔵尊だけは別だねと母が小さく呟いた。
「坊主がここにこんな地蔵や石碑を残していったのは、ひとえにあれのせいだと思う。蓋なんだ。そんなことをしたってどうにもならないことではあるが、まだ無いよりかはましだろう。あれがなかったら魚の数はあれでは足りない。もっと増える」
「もっと?」
「もっと。数も増えるし姿だって」
 ならばもっと友達が増えるので嬉しいような気が半分だけする。まあでもひとひねりだ、と母は手近な石を拾った。
「あれは赤子よりも前のものが大半だから手をひねるのに苦もないか。形だって変わった方が、今と違うから却ってやりやすい。芋虫が蝶になるだろう、蝶になったら綺麗だが芋虫はあまり好きじゃない。立たないのと同じみたいで気に食わないし――」
 母はぶつぶつ言いながら石を弄んでいたが、飽きたのかそのうち石を放り投げた。まっすぐ飛んだ石がそのうち路傍に落ちて、なおも勢い止まらず周りの石を二、三、転がしながら道の端を越える。様子は見えなかったがからから物の当たる音が遠くの坂で鳴っていた。音ははじめ転がった石より遙かに多い。鳥が鳴いた。もう秋の頃であるせいか色合いの地味な蝶が道をゆっくり通って行く先も定まらない様子でふらふら飛ぶ。石の音が遠くなってまたもとの静けさに戻った頃に母とまた道を辿り始める。途中道が崩れていた。母が石を投げた、先程の道の丁度真下である。また通すにはたいそう時間がかかると言って、母はまた石を拾うと道をふさいでいる石の山に打つ。当たった辺りが少し崩れて下の方に転がっていったがもうそれ以上は崩れないのか石の流れる音はしない。
「この先は山を下る道なんだけどね」
 母がよし、と一つ頷く。そうして行くよと手を引いて歩き出した。
「この下が秋野台と言って人の地図にも載っているところ。道が崩れちゃったから来る人もいないだろうけど」
 確かにそんな文字の書かれた標識が倒れている。文字の形に彫りこんだ中に白いペンキを落としてあってそう簡単に風雨では塗り替えられそうになかったが倒れてしまっては役に立たない。もっとよく文字を見ようとしているところになのさっと母が手を引いた。もっと面白いものがあると言う。
 野が近付くほどに秋の花の、赤や黄色が枯れ色に混ざって野に散らばるのが祭り屋台のようで面白い。秋の頃が一番華やかだね、と女郎花を折って母が呟く。薄、竜胆、萩の花、秋の七草を歌う間に母は花を摘み摘みこれは痛み止めこれは擦り傷、解熱、小児の虫封じと、草を取り上げて効能を説く傍ら、次々持たせるものだから両の手はすぐ一杯になる。さすがに母も見かねてさほど薬効はないけれどと、藪から取った蔦をわがねて草を束ねて振り分けにしてくれる。やがて野と道の別はなくなって、辺りはただ一面の花畑になった。春や盛夏に比べれば地味な蝶も数で勝とうと数多飛んで、飛蝗は最後の食事だと言わんばかりに草の影に群を成して、跳ねて降りた先を覗くと葉の食いあとから感情の読みとれない顔を出してしょりしょり葉を食っている。遠くから水野音が聞こえた。滝まではあと少しらしい。
「まっすぐ行けばこのまま滝の麓に出るけれど」
 不意に母が手を引っ張る。
「滝壺を上から見てみないかい」
 行こうと再度言ったときには既に母は地を蹴って紅葉の枝に載っている。昨日を思い出しながら枝を踏もうと足を出すと落ちた。母の手に強く引かれる。
 折角作ってもらった振り分けが落ちて、紅葉の中に見えなくなった。気が付いたら袂の中である。いや木の上なのだろうか。最初に目に入ったものは色の変わりかけた紅葉だ。母の袖もまた紅葉である。
「無理はするんじゃないよ。すぐに慣れるから」
 危なっかしいねと母が言って腕を緩めて地面に降ろしたところを見ると、母の腕の中らしかった。辺りもみなまた紅葉である。
 足は地面についているのだが未だに宙を踏んでいるような心地がして、片足に体重を乗せたり、爪先で地面の小石をつついたりしながらうろうろする。まだふらつくようだから崖の方は危ないよと先を見て母が言った。いざるように進んで木の幹を伝って立つと、木の幹から十歩あるなしの所は地面が消えていた。滝壺に水が落ちる響きが足下から地面を伝って山の上まで震える。ちょっと下を覗くと霧が出ていて滝壺は見えなかった。飛沫が飛んでいるせいだろうか。
 滝は遠倉の滝と言うらしい。
「滝壺の底は知れないよ。まあ悪くはない名だ。滝壺の辺りはいつも湿気って遠くて暗い。験者や坊主がたまに水垢離を取っていたが、いつの話だっけねえ。僧坊があった頃からずっとそう読んでいたから、そうか六百年はくだらないのか」
 あんまり近寄るんじゃないよと母が繰り返し言った。滝壺まで降りるのはさすがに難しいからせめて霧が払えたらいいなと滝を見ながら思う。須磨は昨日川を伝って逃げろと言っていたが、逃げる逃げないはいまだに判らない。やっぱり逃げ損ねているような気がする。
 枝を透かして下流を見ると、飛沫の霧が川筋を流れて霧も途切れ途切れになってゆくので河原の石も粗く露出して、霧の裾を噛むようである。そうすれば深い滝壺が見える。気付かないうちに一歩、紅葉の方に踏み出していた。滝壺の景色を見てみたいと思った。河原の石はそのまま裳裾を食いちぎればいいのにと思う。一歩、崖の方は危ないよと眠たげな声で母が言う。手近な枝を掴むとその上に座った。だいぶ滝の方に近付いているのに母が何も言わないことを不思議に思って見ると、野の中に座り込んで居眠りをするのか、うつらうつらするたびに紅葉に散らした黒髪が波立つ。
作品名:山の母 作家名:坂鴨禾火