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山の母

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 退屈だろうから一つ話をしてやろうかと母が言った。だるくて気持ち悪くて仕方がなかったが、母の呟きを聞き取れるくらいは出来たし、ぼんやりしているとは言っても確かに少し退屈である。母は自分の側に屈んだまましばらく考え込んでいたが、そうだねえとおもむろに山の見所を語り出した。本を持つまでもないらしい。
 鳥が飛んだ羽音が聞こえた。玉泉の他に水が湧くところがあるのかどこかで川の流れ降る音も聞こえる。寒林に葬られたものの魂は泣く泣く前世の業を怨んでぼうぼうと風を鳴らしていた。山は配流の地である。山にはまた、悪事が詰まっていると人が言うのを聞いたが、山には山で美しいところもある。山深い野には天人が降って花を摘んだりするらしい。文字もあるような無いような、母の脳裏に浮かぶままに言葉が続いていく。
 山には修行の坊主がいたこともある。坊主は憂き世を離れて修行に励むものとされていたから天女が遊べば修行の邪魔になったがどうなったのかはまあご想像の通りさと母が言った。その坊主は水で死んだ。そのころ須磨は居なかったらしい。
 そういえばほととぎすの話をしたよねと母が言った。
「山にはアメナキという大きな鳥もいる」
 母の話は脈絡がない。
「姿を見たことは無いが、何でも山の中腹辺りに住んでいるらしい」
 何でも襤褸をまとったような黒い鳥なのだそうだ。母はあまり近くで見たことがないらしく、細部はひどく茫洋としている。朦朧とした意識の中でアメナキという鳥の姿を描こうとして、うまく行かないので四苦八苦していると肝心なのは姿ではなくて声だねと母が言って膝に肘をついた。
「聞こえたら教えてあげるけど、一度聞いたら忘れないよ。ひいとかぴいとか言うけど、なんて言うかね、耳の底というか骨の底まで響いてひっかき回すようなそんな声だ。人によってはアメ、アメフルと聞こえるそうだよ。実際にそう鳴いているものらしい。あれは元々人だったんだよ」
 大分よくなったかねと母は顔色を見て言った。それから山の稜線の辺りに目をやって言葉を探しているらしい。
「飢饉のときに死んじゃってさ、……弟がいたんだね。可哀想に。それのことを心配して心配して今でも雨が降る前になると大声で叫びながら里の方に飛んで行くんだ。よっぽど心配なんだね」
「人が鳥になる」
「なる。ほととぎすも兄弟だったし、山鳩もしょうびんもみんな人だよ。鳥の事情はよく知らないが、知らなくてもほととぎすの話を知っているくらいだから鳥の中ではよくあることらしい」
 だからアメナキの声を聞いたら沢を離れるんだよと母が言って腰を上げた。だいぶ加減もよくなっていたので自分も母に遅れて歩き出す。
 あれは転び坂、あれは白塚と母は次々指を指しながら緩い坂を上っていった。峰を越えるときにはちょっと口数が少なくなった。
「地蔵尊が見えるだろう。坊主どももよけいなものを残していってくれた」
 わけを聞くとそう言われる。あそこから峰の向こう辺りまで石碑があってたまに物好きが見に来るんだと母が言った。母の指す方を眺めると、確かに道を少し下った茂みの辺りに赤い前掛けの地蔵が見える。
 地蔵に背を向けるとまた峰の道を歩き始める。平気で母は歩いていくが、尖った石ばかり落ちているので踏み出すごとに石の先が足の裏を苛んで痛い。見ると案の定傷が出来ている。痛いのをごまかそうとするのか母も無理に口角を上げている。
 話そうとすると痛いとしか言葉が出なくなってしまうので、自然母も自分も言葉が出なくなって黙々と峰の道を歩いていたが、母が道の脇の石碑を見て、あれを敷いて渡ることが出来たら大分楽だなと呟いた。
「しかし倒れるかな」
 そういえばいくら風が吹いても一つも倒れたところを見たことがないねと母が言って口を噤んだ。もう少し行けば石だらけの道は終わってもう少し歩きやすい土の道になるのが遠くに見えていたが、それで今の足の痛いのが和らぐというわけでもなく、やっぱり口を閉じている。道に落ちている石は悉く赤い。赤いのは尖っている足に血が落ちるせいにも思えた。この道は嫌なんだよ母が呟く。
「嫌なんだよ」
 石碑の間を白いものがすり抜けたのを母は見逃さなかったらしい。足下から小石を拾うと白い影に向けてまっすぐ打った。白いものの形は判然としない。先端の方が五つにわかれていてその根本がぷっくりしたあと、同じような太さの腕が付いていた気がする。白いものは後一歩というところで辛くも母の打った石から逃げおおせて、石が当たった辺りに白いものの痕跡はない。母が忌々しげに舌を打つ。
「今の、何に見えたかい」
「手」
 真っ白な腕だった気がする。それを聞くと母は春彦の方がよく見えるみたいだと溜息をついて、あれは好きじゃないと言い足す。それから道の終わりまでずっと無言だ。もういい加減感覚の麻痺した足の裏で山の道を踏みながら白いもののことを考えていた。あれはやっぱり手だと思う。昨日水の中で泳いでいた魚の群の同類だ。夢で見たとき腕は大人の腕ほどあったような気がするが、今見た腕は子供の腕で、そのせいかなんだか柔らかそうに見えた。よく注意して見ているとそういう細い腕が碑や石仏の後ろからいくつも出たり引っ込んだりしている。木の葉を掴もうとしたり、何をするまでもなくひらひらさせていたりするから、こちらも手を差し出したら友達になれるだろうか。見たところ自分と同じくらいの大きさの手も混じっている。母の後ろに回って後ろ手で手の一つを掴んでみるとあっけなく引かれて指の先でぶらぶらしている。白い手は指先から腕の中程までは見えていたがそこから先は溶けて無いのか見えない。不思議だったので強く引っ張ってみるとぶらぶらした奥に何かつながっているのか妙な手応えがあった。なので思い切り引いた。
 釣れたのは他の白い手である。やっぱりどれも腕の半ばでみんな溶けて無くなっている。魚の群のようにいくつも腕が空中に現れて引っ張られて落ちてくるのは空での出来事なのに、ぶちぶちと根を引きちぎるような音が一斉に響いて腕がのびてくる。びっくりしたように母が振り向いて手が落ちてくるのを眺めていたが、また強く手を引いて自分を背中に立たせると、脅すように風を飛ばした。白い手を打つ。重さがないのか統御をなくして簡単に舞い上がった手めがけて足下から小石を掴むとまとめて投げる。ひとつ、ふたつ、たくさん、石の当たった手は水の中に沈められていくように次々姿をなくしていく。掴んでいた手は最後まで消えなかったがそれでも二、三発石を当てると溺れるように宙を掴んでやっぱり消える。瞬間、指の先がばいばいと小さく動いた。自分も母に見えないところで小さく手を振る。
 母は踵を返すと残り少ない峰道を一気に駆け下った。血飛沫が飛ぶ。石を投げられて退いたものの白い手の影は相変わらず板碑や道の地蔵尊に絡まり付いている。あれはね、と母が言い辛そうな口を開いたのは峰道からだいぶ下った後だった。足下はもう落ち葉が敷き詰めてあって、多少滑るが足の裏には優しい道が続いている。
「人間のようだが、しかしまだ人間でないというか」
「知ってる」
 母が言い辛そうにしていたので思わず言った。
「さかな」
作品名:山の母 作家名:坂鴨禾火