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山の母

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 そうしているうちに気分はだいぶましになって来たので試しに立ち上がって窓の下の唐櫃に手をかけて引っ張ってみる。開かないので鉈を置いてもう一度指をかけるとわずかに蓋が浮いてぱふんと埃臭い空気を吐き出してまた閉まる。もう一度、今度は辛抱強く持ち上げると向こうの端で蓋が滑って後ろに落ちた。中には須磨が着ていたものか衣服が幾枚とそのほか身の回りの細々としたものや、鳥籠虫籠、羽、鱗、木の葉、飴玉の包みやら風雨で飛んできた雑誌の切れ端が使い古しの襤褸の中に丁寧に包んであるらしい。こんなものを須磨が何に使うつもりだったのか判らない。水濡れで印刷がひどく不鮮明になった紙の目を見ながらひょっとして山の外を知りたかったのかと思った。紙は漫画雑誌の切れ端のようだから、文字が読めなくてもいくらか判る。衣服の方を広げてみるとどれも夏向きでひどくくたびれていた。片袖ばかり欠けているものは見あたらなかった。一枚一枚畳んでしまいながら、衣の内にさっき拾った片袖と鉈をくるんで、それからしばらく考えてから床の本も拾って入れる。しまい終えてしばらく唐櫃の前で中を見ていたが、することもなくなってしまったので蓋を引っ張り上げてまた元のように戻した。それから布団を上げた。荷物を背負って母のところまで行った。
 母は三和土から框へと上がりかけたところで自分の姿を認めると、もう大丈夫なら歩きに行くかねと踵を返しかかったが、ちょっと待ってと言って上着を取りに部屋に行く。框で足をぶらぶらさせて母を待つ。須磨が命がけで逃げようとしたのに比べて何とも暢気だと自分でも思った。だから山でも里でも逃げ遅れるのだと思う。今も逃げ遅れている。それでも死にたくないのだろうか。少しだけ首を絞めてみる。
 程なく襖が開いて紅葉の薄衣に袖を通した母がお待たせと飛び出してそのまま土間に足をついた。母は裸足である。そういえば山には入る前に母の靴は置いてきた。
「春彦の靴が見あたらないね」
「あ」
 靴は部屋だ。須磨が片付けたかなと母が呟きかけて何か間違いに気付いたのか語尾は曖昧にごまかして聞こえなかった。とにかく靴がないのでどうしようかとまごついていると、いいじゃない春彦も裸足と母が強引に手を引っ張る。
「ほらもう土に着いちゃったんだからあきらめなさい。今日はあんまり飛ばさないつもりだし」
「どこへ行くの」
「そうだな、……渓谷の方へ回って滝を見に行くか。そろそろ秋の花の頃だから」
 流しの横から母が竹筒を取って渡した。中を開けてみると透明な水が昨日の月のようにぼんやり屋の内の光を跳ね返しながら揺れている。底の方には葉の付いた橙色の細長い実が二つ沈んで筒の底を大きく揺するとそれに遅れてわずかに揺れる。
 水筒の底を揺すっている自分を見て、梔子が入っているのは毒消しだよと言った。
「入ってるでしょ」
「うん」
「梔子はね、表の淵の毒を抜くのに役に立つんだ。それは多分昨晩つけたものだから、もういい塩梅に抜けていると思うよ」
 誰が準備したのかは聞かなかった。たぶんここにはいない誰かだ。表の水は梔子を入れて飲むこと、と敷居を跨ぎながら母が言う。
「急ぐときなんかはお茶にして出す。あんまりおいしくはないけれども色は綺麗だ。木なら池の周りにぐるっと植えてあるから、汲んだときに葉でも実でもちぎって入れる。春彦は虫、好きだったっけ」
「うん」
「梔子にはすかしばがつくんだよ。気が付いたら取っておくこと。そうでないとあっという間に丸坊主にされるから」
 そういえば少し下ったところには梨と栗があるよと言いながら、昨日よりはずっとゆったりとした足取りで母は水の縁を辿って行く。ほらあれが梔子と母の指す方を見れば確かに水筒の中に入っていた赤い実が、いくつも家の側の茂みにあった。水にも映り込んでいる。家の前にあるのは水溜まりではなく確かに池で、それもかなり深いようだ。井戸のように丸い穴がどこまでも続いているように思えもしたが、ちゃんと底もあるのか色とりどりの石がだいぶ遠いところできらきらしていた。毒の池だから草も生えない、と母が足を止めた。
「何かいたかい」
 淵を覗き込む。
「魚がいる」
「見間違いだよ」
 母は即座に否定したがやっぱりいたような気がする。本当だってと返しながらそのまま水の中を眺めていたが確かに魚影らしきものは見えない。けれどもやっぱりいるような気がする。
 淵の底では水が湧き出しているのか、時折水底が揺れているのだがその揺らぎがふと魚の形を結んだり、人の手足の形になってみたりするのは一体何故なのか、さっぱり見当が付かなかったが昨日夢で見た景色と淵の底がよく似ている。だから自分は魚がいるような気がしたのかなと思った。石の間からごぽりと大きな泡が立ち上がって水の底が揺れた。中程には魚の大群、底の方には手足の群、そうして淵の一番底には子供の姿がぽつんとあって石の上からこちらを見ている。昨日話した子供だ。須磨はいない。子供がつまらなさそうに口を開いたところで水中の大きく歪んだ。泡が揺らぎを飲み込んでいく。
 ――まだ生きてるの。
 鼻先で空気がぼわぼわと音を立てながら大きくはじけた。
 母はもう飽きてしまったのか早々に腰を上げるといつまで覗いているんだか、と言ってぶらぶら岸を歩き出した。
「何もいやしないよ」
 魚も子供も母には見えていないらしい。慌てて自分も母の後を追いながらもう一度水の中を見るとやっぱり恨みがましい目で子供がこちらをじっと見ている。何が悪い、と魚に言われた台詞を口の中で呟くと子供も魚もぱちりと消えて、透明な水の底に綺麗な石が並んでいるだけになった。見覚えのある卵形の石が子供のいた辺りに転がっている。
 それともやっぱり何かいたのかいと母が聞いた。横に首を振るって差し出された腕に掴まる。水の中のものは本当に見えていないのかなとも思ったが、見えていてもきっと見えない振りをするのだろうなと思う。あの子供や魚の群は誰も知らないままに死んだものだというが、その誰も知らないところから、命を引きずり出して日の光に当てるのも母であるはずだったし、そうして引きずり出した子供を誰にも知らせないうちにまた水の中に返してしまうのも数多の母だ。母は姫神と呼ばれた。それは自分の母ばかりではなく、この山を行く女の人のすべてに当てはまるのではないか。山路を血で濡らしながら姫神は水を汲みに来る。母が自分を連れてこの山に入ったのは羽衣を取り戻して父の元から逃げるついでに自分の手を引いてきたらしかったが、昨日母から感じた恐怖もあながち間違いでもなさそうだ。結局須磨も死んでしまった。水の中に須磨はいなかったが、ごろりと腹の底で揺れているのはほぼ間違いなく須磨のなれの果てである。歩くたびにその肉の塊が動くような気がする。少しずつ消化されているのか口にしたばかりのときよりも肉の塊は小さくなって、代わりに肉からとけだした何かが体の中に染み通っていく。また目眩がした。体が熱くなって脈拍が乱調を打った。うずくまると母も足を止めて待つ。その限りでは優しい母である。
「大丈夫?」
「……う」
「しばらく動けそうにない?」
作品名:山の母 作家名:坂鴨禾火