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山の母

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 母は異変に気がついたようだった。肉を喉に詰まらせたと思ったのかゆっくりでいいから、ゆっくりでいいから、ね、と宥めるように繰り返しながら背中をさすってくれたががたがたと震えが止まらなかったのはたぶん飲み込むのと飲み込まれるのとの両方の意識が同時にあったから、何が何であるか判らなくなっていたせいだ。自分は須磨である。須磨は自分で、春彦さんと呼ばれた。母の隣に立った男たちからは、あれだの春くんだの彦だの坊ちゃんだのその時々に思いつく名前で呼ばれたが、しかし自分とは一体誰だったろうか。母は相変わらず背中を撫で続けて春彦、春彦と呼んでいた。春彦だったろうか。ずっと一緒にいる母であったから、今はころころ変わる男たちとは違って終始呼び名は決まっていたが、母一人しか呼ぶ人がないからひとたび揺らぎ始めるといつまでも揺れる。誰か別の声が聞きたかった。父の声が恋しい。そういえば昨日須磨と立てた逃亡の算段も、結局は父の所へ向かおうとしていた。父と、母の他は誰もきちんと自分を呼ぶ人はいない。ずっと姫神様のそばにいたのだから籠の中でも大して変わらないだろうと言った須磨の論は確かに頷ける。
「春彦」
 ごろりと胃の腑の中に肉の塊が落ちると呼吸は一気に楽になったが今度は頭から血気が失せて今肉の落ちた腹の辺りに流れていった。手の先が冷えて口唇が、おもしろいくらい真っ青になっているのか色を確かめることは出来なかったがわなわな震えているから相当顔色は悪いらしい。山の気に当てられたのかなと母は自分の顔を眺めていたが、落ち着いたら少し外の気を吸ってみようか――と言った。
「じきに慣れるから、それまでの辛抱だよ。そういうときは下手に家の内にこもっているより外に行った方が気分も晴れるだろう」
「……。」
「幸い昼だしね。夜目が効くとは言っても昼の方がよく見えるものもあるからそれを見に行こう。鳥なんかは昼に見た方が楽しい。紅葉の色付くのも、明るい日の中で見た方が数段楽しい。紅葉はね、昼の植物なんだよ。植物って言うのはまあ大抵は昼のものなんだけど、そうだねえ、ほととぎすなんかは鳥も草も揃って夜の方に類するのではないかな」
「……うん」
 とりあえず返事は出来るようになったがまだ歩き出すには覚束ないのでそのままうずくまって相槌を打つ。草の方のほととぎすは知らなかったが鳥の方ならば確か小夜鳴鳥の異名があって、その名の通り夜鳴く鳥だったはずである。あの鳥には確か弟鳥がいたねと苦しい息の間に間に言うと母は少し首を傾げて兄ではなかったかと言った。
「あれだろう、山芋のいいところを食っているんだと疑われて腹を割かれた」
「うん」
「あれは確か兄鳥だったよ。ほととぎすがその弟で、……ああ、あの人から聞いたのか」
 あれは学者だからと言って額を額にあてる。
「全国に分布するとか言って別の所の話をしたんだろう。一度聞いたことがあるよ。兄弟で孝行なのは大抵末の子か、継子の場合は先妻の子だろ。そういう風に話が出来ているんだよ。でもね、この山のほととぎすは弟で、腹を割かれたのは実の兄だったはずだよ。確かいつだったか山の案内をしてくれたほととぎすがそう言っていた」
「ほととぎす、が、山の案内」
「そう。あまり無理するんじゃないよ? よくなってから話せばいいから」
 熱はないようだねと額を離して母は膳を片付け始めた。空になった碗と皿を持って襖の向こうに消えてようやく長く息を吐き出す。もうだいぶよくなったものの胃の底にはやっぱり不快な感が張り付いていてまだあまり動くわけにもいかない。のろのろと膝を前に抱え込むと服の中から須磨の片袖を出して膝の中に抱えて、もう一度整理を試みる。須磨が消えた。食膳に肉が上った。その肉を飲み込もうとして気分が悪くなったのだ。
 ――須磨が。
 須磨の肉を食らって、須磨の魂を食ったのだった。気分が悪くなったのはそのせいかもしれない。里で肉や魚を食べていたときは思いもしなかったが、考えてみれば言われるまでもなく食べるものというのは基本的にすべて生きていたものを食べるのだ。生きていないものといえば水くらいのものである。けれどものを食わなければ生きていけなかったし、みながみな須磨のように仙人じみた生活を送ることが出来るわけではない。それに須磨は殺されてしまった。死んだものの魂を手元に留めておくには、やはり食べるしかないのではないだろうか。そう思ったから須磨の肉を食ったのか、今になっては思い出せない。
 自分が須磨を食って須磨の体か魂か、自分の一部にすれば須磨は自分になるから須磨とずっと一緒にいられる。肉の塊が胃の中で姿を消して行くのが判った。不快な感じも薄れてようやく立てる。
「……う、」
 それでもまだよろけてなんだか体が別のものになってしまったようだった。順応するまでの我慢だと母は言っていたが既に体が山に慣れ始めているのかもしれない。そういえば須磨は山のものだった。山の食べ物になったから、それを食べた自分も山のものになりかかっている。びくんと勝手に体が震えた。嘔吐の正体はこれだったのかもしれない。ぐるぐる景色が回りだしたがそれでも立っているとはたと止まる。様子を見ながら壁伝いにそろそろ動いて廊下に出ると、もといた須磨の小部屋に戻った。
「……。」
 なんだか歩く気力も失せてしまって敷いたままの布団に座った。体全体が熱くてだるい。熱はないとのことだったが、もしかしたら実際の熱と違う熱で、疲れや病気とは違うのかもしれない。実際立とうと思えば立てたがそう思わないから立たないでいる。座ってそのまま部屋に散らかしたままの本の表紙を眺めていたが、文字を見ようとするとくるくる回って車酔いでもしたかのようだった。本当に気持ちが悪くなってくる。
 本の向こうの壁に立てかけたままの鉈が見えた。そうだ鉈を戻さないといけない。文字を見てまだ頭がぐるぐるしたまま気分も悪かったので、床に手をつきながら壁まで行って、取って抱えながら布団の上まで戻ってくる。鉈がいるのはどんなときなのだろう。たぶん薪を割るのが本来の用途なのではあろうが今はいろいろなものが頭の中を回るからろくな答えが出てこない。人の手足だったり生首だったり、そういえば昨日見た水の中の風景には魚の群に混じって腕一本、足一本が器用に水をかき分けて泳いでいたような気がする。あれは鉈で割ったのかなと思う。
作品名:山の母 作家名:坂鴨禾火