山の母
そういえば人参しか食べてなかったっけと母が言って皿にのせた肉を口に放り込む。須磨が言いたかったのは、山のものを食べるなということだろうか。死者の国の物を食って帰れなくなる話を父からはいくつも聞いた。その土地の物を食うとその土地のものになってしまうこともあるらしい。そうでなくとも母がよそった器の物はどうにも箸をのばす気になれない。葉の物はいい。問題は肉である。山でも肉がとれるのだろうか。鹿や鳥を追えば確かに手に入れられないわけでもなかったが、急な来訪に須磨が予め肉を用意していたものとも思えなかったし、そもそも須磨は白米さえほとんど口にしないらしかったから、肉はなおさらなのではないだろうか。山の家に冷蔵庫など便利なものは見あたらなかったし、肉があればあったで昨日の饗応に出さないというのも考えてみれば不自然である。そう考えると昨日、須磨がいた時点で肉はこの山の家にはなかった。今朝はある。そうして須磨は姿を見せない。黙っているうちにどんどん箸を進める母の手前全く食べないわけにも行かなかったので、里から運んだらしい白米をのろのろと口に運びながら三和土につながる襖を見ると、敷居の辺りに判りにくいが赤いものがついているのが見えた。昨日母の足を濡らしていた赤と同じ色だ。しかも部屋から出るときに付いたのか、敷居にしがみついて太く二筋三筋見えるのが、どうにも指でしがみついた跡のように見える。血塗れだったのだ。食欲を失っている自分の前で母は碗の白米を綺麗に平らげると塗りの箸を持ったまま笑った。箸の色も赤だ。沈みきった暗い赤だ。須磨はどうしたのだろう。どうして母は鉈の所在を聞いたのだろう。
春彦はいいの――と母が聞いた。
「あんまり箸が進んでないみたいだけど」
「やっぱりちょっと気持ち悪い」
昨日倒れるように眠り込んだ前科があるから母はさほど不思議がらずに頷くと、無理はしなくていいからと言ってまた菜を器から自分の皿に盛る。
食膳に向かって箸を持ったまま須磨に関する断片をつなぎ合わせてみる。昨夜母が湯に浸かっているときに、部屋で寝ていた自分の所に須磨が来て逃亡の話し合いをした。そうして須磨は母の様子を見てくると言ったきり戻って来ずに、翌朝の食膳には肉が並んでいる。須磨の行方は杳として知れない。母が教えてくれない。褥の中にあった須磨の片袖と、敷居にしがみついた血痕と、鉈の所在を母が聞いてもう用は済んだけどと付け足したことと、いくつもいくつもの欠片から透けて見えることは昨晩須磨が嫌だ嫌だと真っ青になりながら繰り返していたこととぴったり重なるような気がした。死んでしまったのだろうか。
菜を盛った皿に薄く浮かんだ油の膜が恨めしそうにこちらを見る魚の目に似ていて思わず目を反らすともういいのかいと言って、それじゃ私もと箸を置く。あの皿の上には須磨が乗っている。身は小さく切り取られて脂はとろとろと皿の上に流れ出しているが昨日までは須磨で、鉈を持ったり目を赤くして逃げたいと言っていた須磨で、須磨はもういないのだ。鉈で人を切るとき鳥や蝶が飛ぶこともあると言っていたが、人が死んで小鳥や蝶が飛ぶなら須磨は小鳥になれただろうか。鳥なら白い小鳥、蝶なら白い蝶、褥の上に袖が片方残っていたから白いのは翼の片方だけかもしれない。褥の上で何があったかは考えたくはなかった。努めて目を反らそうとしたがふと視界の隅に白いものが映るたびに暗惨たる気分になる。母がまぐわっていたのはいつものことだから取り立てて気になるほどでもなかったが、褥の上にだらりと横たわって母と絡まり付いているのがもう男の体となりつつある須磨で姫神の忘れ子である須磨でつまりは須磨が母と、須磨の母である姫神と、舐め合ってすり付けて股の間に押し込みながら上げた悲鳴を飢餓に耐えるように空の腹にぐっと飲み込んでいたのだろうか。若い男と言うには幼い後ろ姿が何度もちらつく。行為の最中須磨が何を思っていたのかは知らない。呆然としたまま殺されてしまったのか、あるいは老いた樹木のように思うところ無くひたすらなされるままにしていたのかもしれなかったが前を触られて涙ぐんでいた昨夜の様子からはあまり想像がつかないことでもある。ただ、思いつくのは須磨が辿った運命をいつか、須磨ほどの年頃になったとき自分も辿るのかもしれないということだった。殺されるまでのいろいろな想像は須磨の姿と二重あわせで自分の姿が重なっていたし、何よりも夢で見覚えのある景色だった。暗い閨に母がしどけなく横たわっている。足下は悪くて逃げたいと思っても逃げ出すことが出来ずについ捕らえられて母とまぐわう。そうして死ぬ。殺される。所詮子供の妄想で須磨の胸の内は見えないままであったがせめて、陶然として死んでいったら幸せなのかなと思った。すっかり冷めてしまった皿の上で、須磨がじっとこちらを見ている。それとも快楽などとは無縁の苦痛だったろうか。
何かに引きずられるように箸が動いた。草を選り分けて須磨の肉を拾う。行き倒れの死体のようだなと思った。死にに行こうとして須磨は死んだのである。無為に死んだのかなと思った。迷いもせず箸は肉をつかんだまま口に向かって、あわせて閉じていた口吻が小さく開く。何をしているのだろう。自分でも判らなくなって考え込んで、ああそうだ自分は須磨を食おうとしているのだと思った。その間も喉と口は動く。
肉は口に含んだものの食べたいとせり出す舌と嚥下を拒否する喉に挟まれて嘔吐しそうになるのをぐっとこらえて下を向いた。肉が喉を塞いだ。須磨の魂はどこにあるのだろう。息が詰まって死にそうになりながら思った。やっぱり肉の中なのだろうか。肉ならば今口の中にある。殺されてしまったのだから食べなくてはならない。食って少しでも身に留めて置かなくては須磨の魂は散り散りになってしまう。額に脂汗が浮いた。肉を吐き出そうとせり上がる唾を口の中にためるとゆっくり喉に運んでその流れで肉を胃袋の方へ押し流す。水と相性が優れておいでです。須磨はそんなことを言ったけれども嘔吐の情は抑えきれずに時折揺り返すように肉を押し戻す。身体の反応は正しい。こんなものを本当は食べてはいけない。