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山の母

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 これはおかしいぞと思って本を閉じた。耳を澄ましてももう湯殿の辺りから水の音が聞こえることはなくて、代わりに聞こえるのは早くに起き出した山鳥が山のどこかで叫ぶ声が遠くにするばかりだ。いよいよおかしい。窓の下の唐櫃に登って格子の窓から外を見るとやはり夜は明けている。須磨はどこに消えたのだろう。湯殿へ偵察に行ったとしても、だめならだめで策を練り直すか機会を窺うか、とにもかくにも一度は戻って来るはずだろうと思っているうちにますます夜は明けてゆく。いよいよまずいと思った頃に一声鳥が鳴いた。夜が明けたのだ。
 鳥の鳴き声を聞いて朝かと思いうかうかと扉を開けたら外は未だ夜で化け物に食われてしまったのだ、という寝物語も父の声で聞いたことがあったが昨夜須磨が閉め忘れて代わりに自分が閉めた戸をそろそろ開けてみてもやっぱり朝であるのか部屋と廊下を仕切る襖の隙間から光が漏れて、どこかから物を煮る鍋の蓋がずれてかたかたいう音が聞こえる。廊下の隅にも光が落ちていた。土間の辺りで忙しく足踏みをする誰かの足の音も聞こえる。須磨だろうか。きっとそうに違いない。昨日自分は本を眺めているうちに、きっと眠ってしまったのに違いなかった。須磨も結局逃げる機会が窺えず、戻るのが遅くなってそれを伝える機会を逸してしまったのだろう。そうして朝は朝餉の支度をしなければならない。一足先に台所に立って、火の加減を見たり釜の煮え具合を見るためぱたぱた走り回っているのだ。そう思ったので台所を見に行くことにした。昨日から同じ靴下を履いたままの自分の足が敷居を越える。
「お母さん」
 台所に立っていた母は、やっと起きのたかいと言って笑うとまな板の上に刻んだ葉物を鍋の中に放り込んだ。昨日は遅かったからねと母が言って味を見る小皿の中には緑の物に混じって肉の欠片がいくつか浮いている。
「じきに出来るから昨日の部屋で待ってて」
「須磨さんは」
「ええとね」
 言葉を切って考えているのは単に料理の味のことなのか、それきり言葉もなくて母に言われた通り部屋に入ろうとすると、鉈が見あたらないんだけど、と母が呼び止めた。
「昨日須磨さんが持っていたような気がするけど」
「じゃ、どこだろう。部屋かな」
 確か須磨の部屋の壁に立てかけてあった気がする。母は葉物を切っていた包丁を持ったまま、まあ、用は済んじゃったけどねと言ってこちらを見ていた。
「追々要るから、見付けたら釜の横に後で戻しておいで。朝ご飯だよ。布団を上げて一緒に食べよう」
 襖を開けて母の部屋に入ると母が言ったように床がだらしなくのべてあって、今し方までこの中でまどろんでいたようである。衣紋掛けには昨夜見せびらかしていた山行きの薄衣がかけられているのが見えた。朝方の光に透かしてみても物は確かなのか所々ある綾織りがつやつや光って紅葉の燃えているような気がする。その薄衣をちょっと跳ね上げて奥の襖を引いて向こうを見ると、同じような作りの部屋が、こちらは物も散らからずにがらんとしていた。雨戸も閉め切っているらしい。須磨はいない。ぐるりと辺りを眺めると襖を戻した。衣紋の乱れをなおして部屋を片付ける。かける布団は朝抜け出した跡が残っているとは言っても一応それなりに整えてあったけれども、褥は乱れに乱れて一人の寝相と言うよりは二人の寝相が絡まり合って、しかもものすごく暴れたものでなければこの乱れ方はあり得ないのではないかと寝具を畳みながらぼんやりと思う。掛け布団に襞を寄せるのは、布団の中入って蹴り上げれば簡単に寄ったが人が上に乗る褥の場合、人の重さが乗るからあまりしわしわ波打たない。掛け布団に続いて褥も三つに折り畳んで部屋の隅に寄せようとして、ふと白い布切れが褥に挟まっているのに気がついた。布巾のようだったがよく見ると筒になっている。
 ――これは。
 衣の片袖である。背後で襖を開く音が聞こえたので慌てて自分の着ている服の中に隠す。記憶に間違いがなければ確か須磨は白い作務衣のような物を着ていたはずだ。その袖をもごうと思ったらたぶん出来るが、日頃の生活で袖が落ちることなどまずあり得ない。第一そうすぐにもげるものなのだろうか。
 茶碗と先程煮ていた鍋の物を持った器を片手に持って襖を開けた母がどうしたのと聞いた。茶碗の物は白米であるようだったが、もう片方の、器の菜の葉に混じった肉の塊は一体どこにあったのだろう。昨夜重を乗せていた卓を引っ張り出して母はその上に器を置く。山で米がとれるのだろうか。埴を練っただけの素朴な碗の上でうまそうな湯気をたてているのはしかも白米のようである。無言で首を傾げていると、これは多分山の下から持ってきたんだと母が答えながら器の菜と肉をさらに小皿に取り分けた。
「手が空いているとき、たまに持ってくるんだ。あの子ほとんど食べないからいつも残っていたけど」
 持ってくるのは重いんだよなあと呟いてしばらく菜をよそう手を止めていたが、そのうち何か思いついたのか、鉢を飛ばせばいいかと言って解決したようである。一通りよそったところで膳の前に自分を着かせて同時に手を合わせた。須磨の姿は相変わらず見えない。
 須磨の所在を菜を摘む母に聞くとちょっとね、ちょっと用がねとはぐらかすばかりで一向に明確な回答は得られなかったので聞くのをやめたが、合わせた手を箸に持ち替えているうちにふとお重から食べてください――と言った須磨の言葉が思い出された。そのときあわせて里から持ってきた菓子や水筒の有無を聞いていた気がする。山のものは食べるなということだろうか。
「どうかしたの」
「あ、ちょっと昨日のお重はもうないのかなって考えてた」
「あの後全部片付けちゃったからねえ」
作品名:山の母 作家名:坂鴨禾火