山の母
山にいる限り私はいつまでも罪と泥んでおります、と言って須磨が笑った。
「山の外で人を殺すとどうなりますか」
「死ぬかよくて閉じ込められるのだと思う」
「山の外でも蝶や鳥は飛ぶのですか」
「飛ばない」
やっぱり死ぬのですねと言って須磨が笑った。
「せいせいします」
須磨はそれでも山の外へ行くつもりらしかった。須磨は死にに行こうとしている。そうは言っても情状酌量の余地は十分ある。慰めかけて、ふと、それが嫌だから須磨は山の外に行こうとしているのではないかと思った。誰かが打たなければならない。放っておいたら死んでしまうものだが情が湧くこともある。魂があるからとものを知る人が言うことがあったが、魂があるから須磨が打つことになる。
「春彦さんは山の外のご案内。私は水筒の調達と、姫神様の様子を見て参ります。頃合いを見計らって私が春彦さんを山の外までお連れしますから」
荷はなるべく少ない方がいいと言って須磨は置いた荷物をたぐり寄せて寝具の横に置く。支度といってもこれだけだ。そのまま眺めていると荷が少し重うございませんかと須磨が言った。
「大丈夫だよ」
「大丈夫ではございません」
須磨が溜息を吐いた。
「春彦さん、早く走れるならそれに越したことはないのです。姫神様も首を傾げておいででした。一体何が入っているのです」
中は本と上着と菓子である。減らせますかと須磨が腕組みをした。生きてゆくのに必要なものと大事なものは違うのだろうか。布団から抜け出して荷をかき分けると上着の下から本を抜き出す。後は必要なものだった。床に置かれた本の文字を見て須磨は目を丸くしていたが、ふるふる首を振ると手を突いて立つ。
「私の部屋で寝てしまったことにしますから。起きていてもかまいませんがお静かに願います。あと、」
戸を開けて細身の体を廊下に滑り込ませて言う。
「私が戻らなかったら」
するりと白い布の裾を擦りながら扉を抜けて振り返ると、須磨は中を覗き込んで笑った。食事の時から須磨とはずっと向かい合って座っていたが、いつの間にか目の縁がほんの少しだけ赤くなっている。泣いたのだろうか。一体いつ泣いたのだろう。母に触られて何度も泣きそうになっているのは見たが、実際泣いているのは見ていない。あと一息と言うところで踏ん張りが効くのか、考えてみるとものを食わないというのもそうなのかなと思った。空腹はどんどん折り重なっていくのに半年は生きていける。須磨はきっとそのような体なのだろう。苦しくはないのかなと思った。たぶんきっと苦しいのだ。けれどそれが時期に鈍麻してしまうことも自分は知っている。今更のように思い出す。山路を辿っているときにふと感じた母の恐ろしさは今に始まったことではない。ずっと昔からそうだったのだ。里にいても母は、やっぱり母で、須磨の言うように魔法使いだった。傍らに男の姿が絶えないのは、やっぱり魔法を使ったからではなかったのか。見ていてごらん、といつか昼間母と出かけて休んでいたときに魔法を使って見せたことがあった。たぶん色目を使っていたのだろう。しかしなぜそうなったかが判らない。魔法ではないのかと思うが、そうして手酷く扱ってもなかなか離れようとしなかった。そうして母の隣に並んでいた男たちがどこへ消えたのか誰も知れない。
「戻らなかったら川を伝って降りてください」
言って辺りを窺うと手招きする。ただでさえ絞られていた声がよりいっそう絞られて耳を打つ。
「春彦さんなら流れに乗って駆け下ることが可能かもしれません。春彦さんは水と相性が姫神様よりも優れておいでに思えます。それに姫神様といえど川の水を留めたり遡らせることは難しい」
一度が限りでしょうと須磨が言ってあたりの様子を窺った。
「一度」
「ええ。それで里まで下りきれなければ姫神様はきっと手を打たれるはず」
言って須磨は背中を向けるとお湯殿を見て参りますと言う声が聞こえて足早に廊下を歩き出す音が聞こえた。扉は閉めるのを忘れたらしい。閉める前に廊下へ身を乗り出して覗くと突き当たりの土間の前で、ゆっくりと須磨が曲がってゆくのが見えた。手には何も持っていない。見ると鉈は部屋の中にある。
須磨は身一つで山を下りるつもりだろうかと思いながら須磨の消えた廊下を眺めた。風呂へゆく角の向かいは母と須磨と三人で膳をつついた部屋に違いない。須磨の部屋の向かいにも一つ部屋の襖があったが、今は誰もいないのか物音一つしなかった。振り返って月を見る。三和土に置いた靴は須磨が持ってきてくれたらしい。部屋の隅に鉈と一緒に寄せてある。
そこまで眺め終えると手持ち無沙汰になって床に散らばった本を見た。須磨が戻ればリュックの荷物だけ持って逃げ出す手はずになっていたから、荷物の外に投げ出された本はこれが最後、もう手に取って歩くことはない。山に持ち込んだ本は父の文字ばかりの本が一冊と絵本が一冊、絵本は口絵の模様が見事だからかさばるものを無理に持ってきたものだった。父の本は箔押しの童話集である。
一般に童話は子供が読むものであるらしいということは、父の蔵書から勝手に幾冊か引き抜いた中にかかれてあってなるほどそうなのかと思ったが、父は学校でも童話や説話の話ばかりしているらしい。父の学問とはそういうものを取り扱うものであるらしかった。だから自宅の書斎の壁は民話集で埋められていたし、幼いときから読んでもらう本に難儀したことはない。読み聞かせを行うのはもっぱら父だ。揃って寝床に入ったあと、同じような話を何度も何度も繰り返して読んだ。時鳥の兄弟の話であればこれは奥州の話、これは近畿の話と聞きもしないのに勝手に続けて細かな差異を並べ上げたあげく、ひどいときには話すうちに何か新説を思いつくのかあっと叫んで書斎に駆け込んだきり戻って来ない夜もたびたびある。今日ばかりは父の寝物語も聞かれない。本も手放さなければならなかった。せめて章句の切れ端を一つでも多く覚えようと、月の漏る窓の辺りに引き寄せて、うつ伏せに寝転がって本を眺める。はじめ、山にきたときの格好のまま活版のページをめくっていたが、だんだん肩が冷えてきたので荷物の中から上着を出した。さらに布団を肩まで引き上げる。須磨はいつまでたっても戻ってこなかった。今か今かと待ちこがれているせいかもしれない。つれづれにページをめくる手の速度が緩んではじめのうちはぱたぱたと小気味良かったのが、時折思い出したように鳴るようになってやがて止まった。目はぼんやりと起きている。
白地に黒ばかりのページの上を、月の前に雲が通るたびに影が這ってまたすぐ元の明るさに戻るのを幾度となく繰り返した。薄雲が揺れながらやがて東雲に変わっていくのか、気が付くと辺りは薄明るくなって昨夜とは比べものにならないほどの朝の光が多数床に落ちていた。多すぎるから数え切れない。朝の光だ。諸々の微に入り細に入り、影になっているところですら明るく照らし出そうとそこら中で乱反射する。