山の母
手に持っていた自分の荷物をなおざりに置いてばたばた駆け寄ると、遠くで荷物の山が崩れるのが見えた。山の家である。火鉢のあった母のいた部屋とは違う小さな部屋だ。高いところに格子の入った窓があってそこから眠そうな月の光が差し込んでいる。
「夢を見てた」
魚がいっぱいいるとこ、と言ってからあれは現実ではないのかなと思った。
「小さな子供がいて、生まれなかったり誰も知らなかったようなものが行くところなんだって。須磨さん、知らない?」
知りませんねえと答えた後ろで鉈が荷物に混じって光っている。板敷きの部屋の隅には使い古しの畳が数枚縦に立てかけてあって、他に表の座敷で使わなくなったと思しい古い什器やら花入れやらが壁の方に寄せてある。寝かされていた布団の傍らには唐櫃があって、床を敷くために片付けたように藁の束や木槌が脈絡もなく散乱していた。普段から使っているのか部屋にあるものの埃は薄い。
もし本当に死にそうだったらあの鉈ではねるつもりだったのかと聞くと、須磨はだって鳥が飛びます、と少々話を飛ばして答えた。
「急にお眠りになるから肝を冷やしました。須磨はまだ春彦さんに聞きたいことが山ほどありますから。でも、死ぬ前に鉈で打って殺してしまえば鳥になった春彦さんを捕まえてお話も出来るでしょう」
後から補う。
「でも捕まえられるのはいやだな、僕」
「そうはいってもずっと姫神様と同じ所にいらしたのですから」
だったらさほど変わらないでしょうと須磨に言われて答えに詰まる。少し考えていままではまだ良かったけど、と答えた。
「夢の通りになって、まぐわったり殺されてしまうかもしれない」
「……ああ」
私も丁度そのことを話したかったんです、と須磨が枕元に座って言った。
「先程の話の続きです。春彦さんは今、この山の家から逃げたいですか」
「ええと」
当面は母も優しかったし須磨にも取って食われるということもなかったが、それより先のことは判らない。須磨は取って食うかもしれなかったし、寝ているうちに鉈で四肢をもがれてしまうかもしれない。それより怖いのは母だ。答えあぐねていると何を迷うことがあるのです――と須磨が笑った。判らないので聞くことにする。
「須磨さんも怖いの」
「怖いです」
躊躇もなく須磨は頷く。
「山の中に訪れるのは姫神様だけです。いくらものを食わずに済むと言っても限度もございます。けして死なないわけではない。殺されたら多分死にます。年を取っても多分死ぬでしょう。それに姫神様のお世話もしないわけにも参りますまい」
加えて須磨も山の中から出られない。山の秘密が何であるか、例えば魔法を使うことや不思議な霊水があるということに求められたが秘密だから数々の不思議もうまく成立しているのかもしれない。何も食わずにいても半年は平気だという須磨は、あの子供に比べれば幾分か悠長に構えていられたが須磨には須磨の難題があった。起きあがって見ているとしきりに、壁の向こうを窺うようである。母は今風呂に入っているらしい。よく聞くと水で肌を打つ音が聞こえた。
それから母のことだ、と須磨が言いたがらないので代わりに言った。
「あなたにとっても山を出ることは緊急の課題なんだ。母は須磨さんをもう、子供ではなくて若い男と見始めている」
須磨が泣きそうなので努めて冷静に返す。
「うまくすれば山を出られるのかもしれない。でももし、母に気に入られたら殺されずにいることも出来る。母はたぶん悪くは思っていない。須磨さんが嫌じゃなかったら」
「それは、困ります」
ようやく声を上げた須磨の声は泣きそうだった。
「食われてしまうではありませんか」
悪いことばかりではないと思うと言うとさらに泣きそうになる、あの方はきっと殺しますと須磨が言った。
「そうじゃなくても嫌なんです。春彦さんも夢で見ておいでなら判るでしょう。く、口とか、暗い閨で股を開いて、こう」
「うん」
確か体勢としては間違っていない。そんな感じで母に男が絡んでいたはずだ。やったことがあるのと聞くと、耳を真っ赤にしてぶんぶん首を振る。お話でうかがったんですと言った。
「単にそのときは面白おかしく聞いていたんですけど、けれど、実際――嫌です。だってあの方は私の母であるかもしれない」
「うん」
「あの方は姫神様です。姫神様は私の母です。それは嫌です」
うわごとのように言って須磨は何か思い出したのか、いやだと慌てて衣服の前を押さえた。衣の前が濡れているような気がする。
「それは避けたいんです」
落ち着いたのか須磨はようやく前を向く。
「このまま情夫となって、山の中で死ぬのは嫌です。山の外でしてみたいことがある。いえ、山の外に行くだけでいいんです。お話にあった慈童のように須磨は外へ行ってみたい。罪せられて山へいらしたんでしょう。罪を断じるのは山の中にあるのではなくて、山の外の、人が住む辺りにあるのでしょう。山には悪事が詰まっております。私はそれをよく知っている」
必要なことかもしれませんがと須磨が片方の袖を跳ね上げた。それが妙にぞくりとした。先程自分の首を絞めかけた腕だ。肩から肘にかけての滑らかな稜線が露わになって月の光につやつや光る。
「須磨の腕は細くても鉈を打ったり人を殺す水を汲んだりすることが出来る腕です。春彦さんもご覧になったでしょう。事実そうして参りました。でも誰も罰しようと言う人はありません。ただ打てばいい。いいえ」
打たなければならないんですよと須磨は泣き笑いするような変な顔になる。
「こんなに細い腕でも出来ることですから、苦もない。造作もない。打たれた方が鳥や蝶になるのならなおさら簡単なことなんです。でもその軽さに耐えられない。須磨はもっと重いものが欲しい。いいえ」
重すぎてもいけないのかと須磨が自分の方を見て、首に手をのばした。また首を絞めるのだろうか。苦しくなるのを先に見越して身体の方が先に少し固くなる。ほら春彦さんだって死にたくないじゃありませんかと須磨が笑った。そうか自分は死にたくないのかと思う。そう思ったのは初めてである。
「山の道を辿って逃げるのは出来ます。山から逃げられればいくら姫神様とて使える山の魔法は自ずと少なる。ただ、私にとってはその先が問題です。文字の問題がございます。それからお金というものも問題です。私は食わずに済むとはいえ、無ければ遠くに行けないのでしょう。知る人もありませんので誰かを頼るわけにも行かない。見つかるのも時間の問題です。けれども春彦さんにはおとうさんがございますから」
山を下りて里に出たのが昼ならば、勤め先の番号に電話をすれば捕まらないはずもなかったし、もし悠長に構えている暇がなければ交番に駆け込んで母に殺されると騒げばさすがに連絡も行くはずだ。むしろ昼の方がいい。夜なら父も家にいるはずだから、母とはち合わせてしまうかもしれない。そんな算段が脳裏を巡る。普通に考えたらそう思いつくにも時間はかからないことであったが、山の外を知らない須磨一人では確かに心細いことである。なので匿って頂きたいのですと須磨は頷いた。
「しかるべきあとに罰して頂ければ結構でございます。罰して頂きたいのです。そのためには外に行かなければならない」