山の母
違う、とは声が上げられない。意識は明確であるがそこにあるはずの景色は見えずにただただ泡の音ばかり聞こえる。山の家に自分の意識はない。
――何が悪い。
再び耳元で泡のはじける音が聞こえた。目を開く。暗い中に、魚のようなものが泳いでいる。その中の一匹が近寄ってきて言った。鱗のないのっぺりした魚で、よく見ると未熟な人の手足が背や腹に鰭の代わりについて水をかきまわしている。
――生きられなかったからその分の齢を向こうに回してやる義理はないぞ。おまえだってこっちにきていたのかもしれないんだぞ。
――ないんだぞう。
一匹が言うと口々に真似をして代わる代わる顔を覗いて遠くの群に去っていく。ここはどこなのだと言うと声はがらんどうの暗闇の中に沈んだ。暗闇の中は水で満ちているはずだが声は通る。常より通る。肺ごと水の中に沈んでいるのかと思った。水は却って空気よりも音を通す。流れは緩い。ほとんど止まっているような気がした。小さな魚がふらふら同じ方向に流れてまた気が付いたように群に戻ろうとするのを見るとまるで流れがないわけでもないらしい。小さな魚も見たところ胎児のようだった。足から下は魚になっている。
ここはどこなのだろうと思った。須磨の言っていた地下の水脈だろうか。母の暗い閨とは違って足を取られるものも行為の終わった後の体液の臭いもない。爪も肉も皮も死出虫に剥がされた後、わずかな水が腐り骸が崩れてそれも風雪になぶられた後の死骸はこんな冷たい水なのだろうかと思った。人が死ぬのは、心臓にも脳髄にもなく今なお腐敗してはじめて確実に死んだと判るのだというのをどこかで見たことがあった。ならば、骸さえ見えないこの場所は死んで死んで死に尽くしたあと来るはずの場所だ。自分は死んだのだろうか。
遠くで子供が一人駆けていた。嬰児のまま死んだのか影は小さい。魚も子供も大きくて自分と同じほどの背しかなかった。ここに須磨を置いたらたぶん一番大きいだろうなと思って近くの石に腰を下ろす。そうして天を仰いだ。水面の空がわずか揺れたような気がする。
「ここはね、誰も知らないようなものが来る場所なんだよ」
いつの間にか近くの石に人影があってそんなことを言った。
「産まれなかった子供とか。生まれても誰も知らない中で死んじゃった子とか」
君もそうなの、と躊躇いがちに口を開くとまあそんなところ、と人影が笑った。言葉はきちんと通じるらしい。半袖のポロシャツ姿で細い足をぶらぶらさせている子供は見たところ自分よりも少し小さくて、学校へ通学するよりも幼い年の子供のようだった。広い水の中に人の形をしているものは少なくてあたりを泳いでいるのは魚の方が圧倒的に多かったし、たまに人の形をしたものも泳いではいたが衣もろくに着ないような嬰児である。
「ぼく、この中で一番大きいと思ってたのに」
来たばかりなの、と目の前の子供が聞いたのに頷いてまた魚の姿を追う。あれ水子のむれ、と子供が指さして言って不思議そうに自分を見る。
「そんなに大きかったなら学校は?」
「行ってない」
「ふうん。やっぱりそう」
会話がとぎれて水の中はしばらく静かになったが、僕、おなかが空きすぎて死んじゃったんだと子供が言った。遠くの魚の群が身を翻す。
「お母さんは?」
「お母さんは知ってた。お父さんもたぶん」
だけど死んじゃったとやっぱり子供は笑う。それしか知らないようだった。やっぱり死んでいるらしい。お兄ちゃんは、と子供に聞かれてはっと自分はこの子供よりも身体が大きいのだと思った。大きいのは身体だけで、年を重ねているtpいうことと同じではない。ここで生きているということは、むしろ背も低くて未分化の子供の方が年上のはずだ。けれども子供は自分のことをお兄ちゃんと呼ぶ。なぜなのだろうと思った。自分より先にここにいるのなら、十二分にそのことを知っていそうなものなのに、子供はただ笑っているだけだ。何も理由らしいことを言わない。なぜ自分がここにいるのかということもそうだった。考えてみたが一向に原因が思いつかない。出かける前、母は山のように味見をしていたはずだから、煮物に毒は入っていないはずだ。
「ぼくは死んだよ?」
「死んだのかな」
もしかしたら死んでいないのかもしれないと言うと、子供は不思議そうに首を傾げた。
「死んだ中でも、誰も知らなかったような子供がここに来るんだ。お母さんのおなかの中で死んじゃったらもちろん誰も知らないし、僕みたいに、お家の中にずうっと閉じ込められていてもここに来ることがあるみたい。でも、みんな死んでるはずだよ?」
「やっぱりわかんないや。死んだのかなあ」
ご飯は食べていたみたいだしねとうらやましそうに腕の辺りを見ながら子供が言う。子供の方の腕は椅子の足くらいの太さしかない。耳を澄ますとどこかから声が聞こえた。目の前の子供の声も魚の群が呟く声も、それから遠いところで須磨と母の声も聞こえる。私の所で我慢してもらいましょうと言う須磨の声が聞こえて、自分の代わりに母がいいよと返事をしていた。疲れて寝たものと思われているらしかった。やっぱり死んでいないような気がする。
「死んでないのにきたの」
子供が言うのでたぶん、と答えた。なんだか初めて同じ年頃の子供と話した気がする。須磨と自分とも大して年は離れていないのかもしれなかったが、年の割に須磨は妙に丁寧な喋り方をしたし、話を聞いていると齢千とも八百とも言っていた気がするから勘定には入れない。声が聞こえると言うと、耳を澄ましている子供の顔が妙に無表情になった。
「いま?」
「うん、今」
女の人の声じゃないほうと言ってもぴんとこないのか首を傾げたままだ。そんな声ここでは聞いたことはないよと子供が言った。
「こども?」
「うん、一人は子供で須磨さんって言う。その人も子供。まだ子供。山の家に住んでいて、山から出られない」
「僕といっしょだ」
「一緒なの」
「だって出られなかったんだもの。その人も来ないかな」
一番大きいのはいいんだけど、と子供が愚痴る。
「まわりみんなお魚だからお話できるひとがいないんだ。お魚もしゃべるけど。お兄ちゃんが先に来ているんなら、その人もここに来るかな。来るかな」
水底の石はきらきら光った。今度こそ本当に話すこともなくなってしまったのか子供が石を積んで遊び始める。話したいんだけど何を話したらいいのかわからないや、と後ろを向いたまま子供がぼやいて平たい石の上に赤い小さな石を置いた。何の石かは知らない。山の石のようにも見えたが時々きらきらした結晶のようなものが石の表面に張り付いていて、うまく削り出せればそのまま指輪の石になりそうな気がする。母はそうした石の指輪をいくつか持っていた。買ってもらう相手はときの恋人である。自分も一つ拾ってしげしげ眺めた。鳥の卵のような形をしている。
そうしているうちに誰かが揺すり起こすのが判った。須磨の声が聞こえる。ほらあの声、と石積みに夢中になっていると子供の肩を叩こうとすると、手が届くよりも先に目が開いてしまって須磨不安げな顔で立っているのが判った。水の底の景色ではない。子供の姿が消えている。
「須磨さん」
「ああ、よかった。死んでしまうのではないかと思って」