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現代詩の記号論

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 さてEx2aについて。造語を作るにもいくつか方法がある。(1)ひらがなやカタカナで全く新しい語を作り出す、(2)既存の言葉を結合させる、(3)新しい漢字熟語を作る、などである。
 (1)の例として、天沢退二郎の「創世譚」から次の箇所を引用する。

 ある日新鮮なホンダワラが
 少女の死体にとんできてからみつき
 ぐいぐい街路に曳いて走り出した

「ホンダワラ」は新しい記号であり、その記号内容は文脈によって充填されていく。とんできてからみつき走り出すから何かの生き物のようだが、「新鮮な」とあるから食物のようでもある。そのようなものが「ホンダワラ」の記号内容である。もちろん、「ホンダワラ」の語感から、なにやらほんわかしているがちょっと怖そうなものというイメージを抱くことも可能である。語感も「ホンダワラ」の意味形成に一役買っているのだ。
 (2)の例。たとえば瀬尾育生のある作品の題名は「むらさき錯誤」というものである。もちろん「むらさき錯誤」という語は辞書に載っていない。新しい記号なのだ。意味も新しく付与される。
 (3)について。岩成達也の「マリア・船粒・その他に関する手紙のための断片」から次の箇所を引用する。

 では何故かかる皮膚病があたし達において生じるのか? それは、あたし達の船粒の内的深部の欠落−あるいはむしろ、欠落そのものであるあたし達の船粒の内的深部に、原因する。

「船粒」は造語である。だが、(「むらさき錯誤」についてもそうだが)「船粒」は「ホンダワラ」とは違い、文脈に依存しないでも、それ自身で意味を確定させることができる。「船」「粒」の意味内容から、「船粒」の意味内容は推測できるのである。たとえば、「船の本質を粒状に凝縮したもの」といった具合である。(3)のケースも、新しい記号表現と記号内容の創造であり、意味論的コードの拡張である。
 次に、Ex2bについて。河津聖恵の「grazia…」から次の箇所を引用する。

  この夜にほとばしる無は声を高め
 時間を抜けおちる光は卵色から銀色へ

無は、論理的にはほとばしったり声を高めたりすることはできない。無は存在しないからである。また、光は、論理的には時間を抜けおちることはできない。時間は場所ではないからである。「ほとばしり声を高める無」「時間を抜けおちる光」は詩人が新しく創造した記号表現であるが、選択制限を破っているがゆえに、論理的には無意味であり、慣習的な意味を持たない。だが詩人は、こういった記号表現に、比喩として何らかの「記号内容的なもの」を持たせることを意図している。ここで「記号内容」ではなく「記号内容的なもの」と言ったのは、隠喩の意味するものが具体的に明確に特定される必要は必ずしもないからである。隠喩によって解釈の可能性の広がりを提示するだけで、読者に美を感じさせることはできるのである。
 もちろん、あいまいな「記号内容的なもの」では満足できない読者もいるだろう。そのような読者は、詩人が創出した新しい隠喩記号の記号内容を特定しようとする。たとえば「時間を抜けおちる光」。ここでは、まず時間と空間が一体化されているのかもしれない。空間を透過してくる(抜けおちてくる)光は、それゆえ同時に時間をも透過してくることになるのだ。つまり、「時間を抜けおちる光」という記号表現は、「時間と一体化した空間を透過してくる光」と言う記号内容を意味するのだ、と読者は創造的に解釈することが可能である。ここでは、詩人が創出した新しい記号表現に、読者が新しい記号内容を付与している。このことによって、意味論的コードは拡張されるのである。


2.3.2.統辞論的コードからの逸脱

 彼は知っている
 水とは
 怖るべき渇きを
 溶けているということ

高岡修の「形状記憶」から引用した。「溶ける」は自動詞であるから、文法的には、すなわち統辞論的コードからは、目的語をとることはできない。ここでは「溶ける」が「怖るべき渇き」という目的語をとることによって、そのような統辞論的コードが破られているのである。
 語は、「名詞」「形容詞」「自動詞」「他動詞」などの範疇に分かれていて、その範疇の結合の規則に従う。たとえば形容詞は名詞の前に置かれたり述語として配置されたりするものと決まっている。文法的範疇の結合の規則は強固に決まっている。だから、たとえば形容詞が主語の位置に置かれたりすると、「形容詞も主語になれるのだ」という主張は却下され、「形容詞が名詞化されたのだ」という主張が採用される。たとえば「美しいは醜い」において、「美しい」はもはや形容詞ではなく名詞なのである。
 それゆえ、引用部においては、「自動詞も目的語をとれるのだ」という主張は却下され、「自動詞が他動詞化された」という主張が採用される。つまり、「溶ける」は他動詞化されていて、それゆえ目的語がとれるようになったのである。ここでは新しい結合の規則が創出されている。すなわち新しい統辞論的コードが創造されたのである。
 「溶ける」を他動詞としてとらえるのならば、溶けるものは溶けることによって何らかの対象に働きかけなければならない。この引用部では、「水」が「溶ける」ことにより「怖るべき渇き」に何らかの働きかけをしているのである。試みに次のような解釈をしてみよう(あまり良い解釈ではないがこのくらいしか思いつかなかった)。水は水自身に常に溶けている。そして、この溶けるという変化は、水の本質として、水の潤いを示している。この潤いは渇いたものを敵対するものとして排斥する。「潤いとして正反対のものを排斥する」これが他動詞としての「溶ける」の意味である。水が「怖るべき渇きを溶けている」とは、水がその潤いを示すことによって、敵対する渇きを排斥することである、と。ここでは「渇きを溶ける」という新しい記号表現に、「潤いを示すことで渇きを排斥する」という新しい記号内容が付与されている。意味論的コードも拡張されたのである。


2.3.3.解釈の可能性の広がり

 言語記号は、固有名などを除けば、たいてい普遍性を持っている。たとえば「雪が降る」という表現を考える。この表現には「解釈の可能性の広がり」が伴っている。「雪」は粉雪かもしれないし牡丹雪かもしれない。「降る」といっても、大量に降っているのかもしれないし少しだけ降っているのかもしれないし、場合によっては吹雪いているのかもしれない。
そのすべての可能性を、「雪が降る」はカバーしている。
 だが、「雪が降る」の場合、読者は即座にその意味を理解できる。「雪が降る」はコードをなんら逸脱しない表現であるから、コードを参照すればよいだけなのだ。しかも人がコードを参照して意味を読み取るという過程は自動化されている。原則として、特に解釈する必要がないのである。場合によっては、文脈を参照することにより、「ここでは吹雪のことを言っているのだ」などと解釈することもあるかもしれないが、それはむしろ例外である。読者はコードの教える意味で満足し、ことさらに解釈しようとは思わないのだ。
作品名:現代詩の記号論 作家名:Beamte