現代詩の記号論
言葉の意味をしばし無視して、文字の形だけを注視してみよう。「かれらは する」という比較的単純で丸みを帯びた、量産された台のような物に、「殺到」「咆哮」などの複雑で角張った造形物がはめこまれている。「量産され整然と並べられた台の上にそれぞれ異なった複雑な構成物が載っている」、我々はこの箇所において、このような視覚的印象を受け取る。その印象は特に記号作用を媒介とすることなく詩そのものから直接与えられる印象である。詩は第一次的に、文字の形や配置といった視覚性において読者に与えられる。そして、視覚性の段階でも詩は自律し完結しており、そのものとして読者の情緒に直接働きかけるのだ。
次に音楽性について。ここで松浦寿輝の「ウサギのダンス」から次の箇所を引用する。
トリウサギならばパタパタロンロン耳をふり ユルルンユルルンとのぼってゆく
「パタパタロンロン」は「耳をふ」る様子を意味する擬態語であり、「ユルルンユルルン」は「のぼってゆく」様子を意味する擬態語である。これらの語は、一応は記号内容を持つ記号なのである。だが、両方とも、既成のコードにはない擬態語であり、「新しい記号」として詩人が創造したものである。だから、読者はたとえば「パタパタロンロン」に対応する状態をすぐには思い浮かべられず、それゆえその時点では意味が不在である。シニフィエが不在なのだから読者の注意はもっぱらシニフィアンへと向かう。そこで、読者はもっぱら音に注意を向けるのである(当該擬態語は表音文字であるカタカナで表記されているので、読者の音に注意する傾向はさらに強まっている)。読者は「パタパタロンロン」「ユルルンユルルン」を前にして、何らかの意味を読み取るよりはむしろ、その音の響きを楽しむのである。音は詩そのものとして自律性・完結性を持ち、記号作用を媒介することなく直接鑑賞者に働きかけるのだ。
ただし、詩の音楽性については少し注意しなければならないことがある。それは、詩は多くの場合、音声で聴かれるのではなく文字で読まれるということだ。詩が読まれるとき、第一次的に与えられるものは文字である。音は第二次的に与えられるのである。たとえば、「犬」という文字は、記号表現として、/inu/という音声(記号内容)を意味する。音は文字の記号作用の結果として与えられるのだ。詩の読者が音を楽しむとき、そこでは文字が音声を意味するという記号作用が先立っているのである。だから、詩が文字で読まれるときは、詩の音楽性は、文字が音声を意味するという記号作用を前提としているので、自律も完結もしていないことになる。
最後に少し注意を促しておく。たとえば音楽性は、記号作用を媒介することなく直接鑑賞者の情緒に働きかけると私は言った。だが、この場合、音楽性によって引き起こされた情緒的印象を、その音楽性の意味であると考え、そこに記号作用を読み取ることができはしないか、という意見も考えられる。だが、その意見を採用すると、およそすべての対象は、人に認識されることにより、その認識内容を記号内容とする記号であるということになってしまいかねない。たとえば犬を見て犬の視覚的イメージを得たとき、犬はそのイメージの記号であることになってしまう。これでは記号の外延が不当に広がってしまい、「記号」という語の「記号と非記号を区別する機能」が著しく減殺される。私はそのような意見は採用しないことをここに明言しておく。
2.3.記号としての詩
さて、TAに対しては批判が可能である。たとえば宗教画の美は、鑑賞者の抱く宗教的感情を抜きにしては語れないことが多い。ところが宗教的感情は、その宗教画が何を描いているか(何を意味するか)を知ることによって初めて生じるものである。宗教的感情は、宗教画の意味作用を前提にして誘発されるのである。だから、意味作用を度外視しては、宗教画の美を十分に語ることができない。
あるいは、詩の比喩を考えてみる。たとえば「青い軽蔑」という隠喩を考えると、ここでは「青い」という語と「軽蔑」という語の意外な結びつきによって(選択制限を破ることによって)美が創出されている。結びつきが意外で新鮮だと感じるのは、「青い」「軽蔑」という語の意味を理解しているからだ。「青い」が色を表し(意味し)「軽蔑」が精神作用を表す(意味する)ことを理解しているからこそ、結びつきの意外性が認識され、ひいては美が認識されるのである。ここでも、美の創出に意味作用が一役買っている。
さらに、ここで宗左近の「月の光」から次の箇所を引用する。
魚にエラ呼吸というものがあるのと同じように
この宇宙には月呼吸というものがあるのですよ
ここでは、「月呼吸がある」という思想的発見が鮮烈であり大変美しい。このような認識的な美が詩行の意味作用を前提に成立していることは言うまでもないだろう。
このように、一見非記号的な働きと思われる美の創出に関してさえ、意味作用が不可欠の役割を果たしている場合があるのだ。意味作用がある以上、記号論はそれを分析することができる。記号論は、当然、美的ではない論理的構造的対象を分析することが可能だが、それにとどまらず、美的な対象をもある程度は分析することができるのである。
では、具体的に現代詩を記号論的に分析していくことにしよう。
2.3.1.意味論的コードの拡張
記号表現と記号内容は原則として一対一に対応する。たとえば「演算子」は「関数に関数を対応させる写像」を一義的に意味する。もちろん多義的な記号もある。たとえば「子」は「両親の間に生まれた人」「雌雄の間に生まれた動物」「養子・継子」「年少の者」など多数の記号内容を意味する。しかし、記号表現が一義的であれ多義的であれ、通常の記号使用は既成の社会的慣習的コードに従っている。
これに対して、詩における記号使用は、
Ex1.既成の記号に新たに共示義を付け加える
Ex2.新しい記号表現・記号内容を創造する
ことによって、既成の意味論的コードからはみ出て、意味論的コードを複雑化し、拡張する。
Ex1について具体的に見てみよう。ここで拙作「法学」から次の箇所を引用する。
ひとつひとつの霧分子の硬い表面には権利が駆けめぐっている。創世記の時代には、権利は太陽の核内のねじれた闇のなかで、憂鬱に葉を茂らせていた。太陽が天球へとしずくを落としはじめると、権利は種となり、地上の分子たちの喜びの籠に下獄した。
「権利」は「自己のために一定の利益を主張したり、これを受けたりすることのできる法律上の力」という表示義(通常の意味)を持っている。この引用部では、それを前提とした上で、「権利」の意味内容に、新たに「権利の観念的内容を物質化した植物体」という共示義が付け加えられている。この共示義の付加は、文脈によって行われる。この引用部で作者は、「権利」という語を通常の文脈から引き離し、通常はありえない文脈に置くことで、「権利」に新しい新鮮な意味を持たせ、読者に驚きと感銘を与えようとしている。
Ex2はさらに分類することができる。
Ex2a.造語を作る
Ex2b.隠喩を使う