現代詩の記号論
C1.詩を分析する際には、我々はたいへん冷徹であり、詩を楽しんでいるのではなく、詩を科学的対象のような無味乾燥なものとしてとらえている。そのような分析では詩の情緒的作用をとらえることができない。情緒的作用を抜きにしたら、詩は屍体でしかない。そのような分析では、詩の本質をとらえることができない。
次に、RCL2を仮定する。すなわち、「詩が読者に現示する生の真実」が「生命」に対応し、それは本質的重要性を持つがゆえに生命的である、と仮定する。すると、詩学屍体解剖説による批判は次のようなものであると考えられる。
C2.詩が我々に現示するところの真実は、人間の生の全体性のうちでとらえられる有機的で複合的なものであり、分析によってはその全的なあり方をとらえることができない。分析は、分析による真実の断面を示すのみであって、真実の全体を示すことはできない。
最後に、RCL3を仮定する。「詩が体現している有機的な美」が「生命」に対応し、それは価値的重要性を持つがゆえに生命的である、と仮定する。すると、詩学屍体解剖説による批判は次のようなものだと考えられる。
C3.詩を分析する際、我々は特に美を感じているわけではなく、機械的に分析する。これでは詩の本質をとらえられない。また、美は有機的・複合的なものであるから、理論的分析に適さない。
C3は、C1とC2を合わせたものである。だから、実際問題としてはC1とC2のみを検討すればよい。また、C1・C2によって、学問的分析だけではなく、理論によらない一般的な分析を批判することも可能である。それゆえ、詩学屍体解剖説は、理論的学問的分析のみならず、理論によらない一般的な分析をも批判していると考えることが可能だ。
ついでに、RCB1とRCB2をそれぞれ仮定したとき、詩学の分析の対象がどう変わってくるかも見ておこう。
RCB1のように「詩の内容」が「体」に対応すると考えると、解剖の対象が「体」である以上、詩の分析=解剖の対象は詩の内容であるということになる。そうすると、詩学は、詩の内容的分析(詩句の解釈や、主題の発見、内容の織り成す構造の分析、それぞれの詩句がどのように互いに関連しているかの内容的分析など)を為すことになる。
一方で、RCB2のように「詩を表現する文字や音声」すなわちシニフィアンの複合体が「体」に対応すると考えると、詩の分析の対象はシニフィアンの複合体であるということになる。そうすると、詩学は、詩の形式的分析(子音や母音の使い方の分析、押韻の分析、リフレインの発見、視覚的効果の分析など)を為すことになる。
1.2.3.詩学屍体解剖説に対してはどのような反批判が可能か
それでは、詩学の営為は意味のないこととして、詩学を排斥してしまってよいのだろうか。詩学屍体解剖説による詩学批判は、詩学を排斥してしまうほど強力なものなのだろうか。
まずC1を検討する。C1は、詩学は詩の情緒的作用をとらえることができないとして詩学を批判する。ここで、荒川洋治の「水駅」の次の箇所を引用する。
妻はしきりに河の名をきいた。肌のぬくみを引きわけて、わたしたちはすすむ。
ここで、この詩行を形式的に分析することを考える。「しきりに」「きいた」「ぬくみ」「わけて」「すすむ」といったひらがな表記によって、独特のやわらかさや多少の粘性を我々は感じる。ところで、やわらかさや粘性といったものは、分析者の情緒に与えられた価値である。ここでは、表記の仕方がどのような情緒的効果をもたらすかが分析されていて、決して詩の情緒的作用を無視しているわけではない。このように、情緒的作用を分析するのも詩学のひとつの役割なのである。
だが、ここで次のような再反論が起こるかもしれない。なるほど、確かに詩学によっても情緒的作用を分析できるかもしれないし、その分析の最中にも分析者はある程度詩を楽しんでいるかもしれない。だが、詩の分析の最中には分析という理性的作用がどうしても優位に立ってしまい、情緒的価値を楽しむという心の働きは後退せざるを得ない。分析の最中、分析者はある程度詩を楽しんでいるかもしれない。だがその楽しみは、純粋に詩を読んで楽しんでいるときに比べれば、だいぶ減殺されたものである。情緒的作用が後退するという意味で、詩の分析の最中は、分析者にとって詩はほとんど死んでいるのである、と。
しかし、かりに詩の分析の最中に詩の情緒的作用が不在だとしても、詩の分析が無意味であるということになるだろうか。鑑賞と分析では目的が違う。鑑賞の目的が情緒的高揚を得ることだとしたら、鑑賞において情緒的作用が不在なときは鑑賞は無意味であるということになるかもしれない。だが、分析の目的は情緒的高揚を得ることではない。分析の目的は論理的な理解を得ることである。ある分析を評価するとき、人はその分析がどれだけ精密かつ合理的に対象を理解しているかを基準に評価するのであって、どれだけ情緒的効果があるかを基準に評価するのではない。ある分析を評価する基準として情緒的作用を持ち出すのは、身長を測るのに体重計を持ってくるようなものである。評価する基準が適切でないのである。分析はそもそも情緒的高揚を得ることを目的としない。それゆえ、分析に情緒的効果が伴わなくても分析の価値はなんら減ぜられるものではないのである。
次にC2を検討する。C2は、詩学は詩の現示する真実や美(ここではC3の趣旨も含めて考える)を全体性においてとらえることができないとして、詩学を批判する。
まず、詩(より一般的には芸術)の現示する真実というものが何であるかを明らかにしなければならない。「真実」の内実として、次の三つが考えられる。
T1.真なる命題(思想)
T2.出来事・情景・心情
T3.人が真実を発見した時に感じる感情に似た感情(真実感)を引き起こすもの
たとえば、高良留美子の「雨滴」から次の箇所を引用する。
雨のしずくは 走っている乗用車の屋根の上に ときおり完全な半球状の植物を繁殖させる。
ここでは、「半球状の植物」は何かの比喩であるととらえるのが自然である。たとえば、雨と光でできる小さな虹を「植物」と言っているのかもしれない。あるいは、深読みするならば、「植物」とは、乗用車の機能性のような抽象的なものを、雨が奇跡的に具象化させ可視化させたものだととらえることも可能かもしれない。
だから、解釈=内容的分析によって、この詩行から、「雨は乗用車の屋根の上に、その乗用車の機能性を具象化させる」という命題の形の真実(T1)を抽出することができる。命題の形で表される真実(T1)はこのように内容的分析によって導き出せる。それゆえ、詩の現示する真実が命題の形をしていれば、それは原則として分析によって把捉可能である。
だが、今の引用部のような多様な解釈を許す表現の場合、分析者は、可能な解釈をすべて思いつくことはまずありえない。解釈の可能性全体の大きな広がりを「真実」と考えれば(T4とする)、分析は真実をとらえ損なうことになる。