現代詩の記号論
序論
1.序論
本稿では、現代詩を記号論的に分析しようと思う。だが、そもそもそのような理論的分析には意義があるのだろうか。理論的分析に対するひとつの批判として詩学屍体解剖説を取り上げ、それがどのような批判であるか、またそれに対していかなる反批判が可能であるかを探り、現代詩を理論的に分析することの意義を明らかにする。
1.1.隠喩について
詩を論ずることの意義を考えるに当たって、本稿では詩学屍体解剖説を吟味する。その先決問題として、隠喩の一般的な性格について少し述べておこう。
MC1.隠喩は(比喩するものと比喩されるものの)共通性を基盤にして成立する
MC2.隠喩は(比喩するものと比喩されるものの)共通性を読者に認識させる
たとえば、「彼は狼だ」という隠喩を考える。彼を規定する無数の属性のひとつに凶暴性がある。一方で、狼を規定する無数の属性のひとつに凶暴性がある。この「凶暴性」という点において、彼と狼は共通するのである。この共通項(この例では「凶暴性」)があるからこそ、「彼は狼である」という隠喩が成立する。これが比喩のMC1の側面(共通性を基盤に成立すること)である。共通項(「凶暴性」)は、第一項(「彼」)と第二項(「狼」)の比喩的結合を媒介しているのだ。また、MC1の側面は、主に、表現者にとって重要である。表現者は共通性の認識を基にして比喩的表現を作り出すのである。
次に、たとえば「人はカツ丼である」という隠喩を考える(「彼は狼だ」の例でもよいのだが、MC2の側面がより強く現れる例を採る)。この場合、読者は直ちにはこの隠喩を理解できない。人とカツ丼を媒介する共通項が思い当たらないからである。だが、表現者は、たとえば、人が激昂した時の熱とカツ丼の熱を対応させて(「熱」が共通項になっている)、比喩を成立させているのかもしれない。あるいは、人の情緒の微妙な具合と、カツ丼の味の微妙な具合を対応させているのかもしれない(「微妙な具合」が共通項になっている)。
この点についてもう少し詳しく分析する。人を構成する諸要素を人の「役割」と呼ぼう。人の「情緒」は人のひとつの役割である(これは、「情緒は人の果たすべき役割である」という意味ではない。情緒が人に対して何らかの役割を果たしているのである)。カツ丼の「味」はカツ丼のひとつの役割である。「微妙な具合」は、直接的には情緒と味とを比喩的に結び付けている。だが、情緒は人の構成要素(役割)であり、味はカツ丼の構成要素(役割)であるから、人とカツ丼は、構成要素間の比喩的結びつきを媒介として間接的に結びついているのである。多くの隠喩では、このように、第一項(「人」)と第二項(「カツ丼」)が、それぞれの項の役割(「情緒」「味」)を通じて間接的に結びついている。結びつきを媒介しているのはそれぞれの役割の共通項(「微妙な具合」)である。
本題に戻るが、「人はカツ丼である」という珍妙な隠喩に出会うことで、読者は、人の激昂した時の熱や、人の情緒の微妙な具合といった、人の精妙な側面について気づかせられる。そしてこれらの精妙な側面は、人とカツ丼それぞれの役割間の共通性なのである。これが、隠喩のMC2の側面(共通性を読者に認識させること)である。
MC1の側面は常に隠喩に備わっているとは限らない。表現者は、特に二つの項の間の共通性を認識することなく、良さそうな二つの言葉を恣意的に結びつけるだけかもしれない。また、読者の方でも、単に意外な二つの言葉の結合を楽しむだけで、それらの間に共通項を見出そうとしないかもしれない。すなわち、MC2の側面も備わっていないこともある。それでも、MC1・MC2は、隠喩の原則的なあり方として、知っておく必要はあると考える。
1.2.詩学屍体解剖説
高村光太郎は、詩学を「詩の屍体解剖」と言った。ここでは高村個人の抱いていた具体的意図は一応無視して、この言葉を文字通りに受け取って分析する。さて、ではこれはいったいどんなことを言っているのか。
「詩学」とは、詩を学問的あるいは理論的に分析する営為のことを言うのだろう。あるいは、特定の理論を前提としない一般的な分析のことも指すのかもしれない。では、「屍体解剖」とはどういうことか。
1.2.1.詩学屍体解剖説の前提とする比喩
まず、「詩の屍体解剖」という表現は比喩であることに注意しなければならない。詩には生命がないし、身体もない。だから、論理的には、詩を殺すことも解剖することもできない。「詩の屍体解剖」という表現においては、次のような隠喩が使用されている。
MD1.詩は生命を持つものである
MD2.詩は身体を持つものである
「生命を持つもの」の役割=要素として「生命」がある。MD1が成立するためには、詩のある役割が、「生命」と、ある共通項によって比喩的に結び付けられているはずだ。いったい詩のどんな役割が「生命」と比喩的に対応しているのだろうか。「生命」に対応する詩の役割と、その対応を媒介する共通項として考えられるものを、思いつくままに挙げてみる。
RCL1.【役割】詩を読んだときに感じる情緒的高揚 【共通項】充溢
RCL2.【役割】詩が読者に現示する生の真実 【共通項】本質的重要性
RCL3.【役割】詩が体現している有機的な美 【共通項】価値的重要性
詩は美を体現し、生の真実を読者に現示し、読者に情緒的高揚感を与える。それぞれの側面が、生命になぞらえられているのかもしれない。
次に、「身体を持つもの」の役割として「身体」がある。MD2が成立するためには、詩のある役割が、「身体」と、ある共通項によって比喩的に結び付けられているはずだ。「身体」に対応する詩の役割と、その対応を媒介する共通項を、思いつくままに挙げる。
RCB1.【役割】詩の内容 【共通項】構造性・機能性・充実
RCB2.【役割】詩を表現する文字や音声 【共通項】生命の容れ物であること
1.2.2.詩学屍体解剖説は詩学をどのように批判しているか
「解剖」とは、分析のことを指すのだろう。だが、分析者が詩を分析するとき、詩は死んでいるのである。死んだものをいくら解剖してみても、臓器などといった生命の舞台装置を知ることができるだけで、実際の生命活動を知ることはできない。実際の生命活動は、血液の流れ、臓器の運動、代謝など動的な過程であり、屍体のような静的な対象からはその実相をとらえることができないのである。屍体解剖がなぜよくないのかというと、それは生命の実相をとらえることができず、せいぜい生命の痕跡や生命の舞台しかとらえることができないからだ。
さて、1.2.1での分析をもとに、この批判をもう少し詳しく見ていこう。詩の「生命」の内実を明らかにすることによって、詩学屍体解剖説の詩学批判がどのようなものであるか、具体的に見ていく。
まずRCL1を仮定してみる。つまり、「詩を読んだときに感じる情緒的高揚」が「生命」に対応し、それは充溢するという点で生命的であると考えるのである。すると、詩学は詩の屍体解剖にすぎないという批判は、次のようなものであると考えられる。すなわち、