千歳の魔導事務所
距離にしたら相当な距離を走っているはずだが、不思議と疲れはほとんど感じなかった。やはり走る事に特化してる自転車はペダルも軽い。最初は日を分けて調査することも視野に入れていたのだがこの分なら夕方までには余裕をもって終わりそうで、調子に乗って本当にサイクリングなんかしてしまおうかなんていうことを考えていたら――。
「あの、すいませんちょっといいかな」
右の方から声がした。見るとそこにいたのは若い女性だった。真新しいスラックスに胸の開いたブラウス、正に初々しい新社会人といった格好で、所長も数年前だったらきっとこんな感じだったのだろうかな。
ショートヘアの前髪が数本汗で額にくっついているのがみえる。
良くみると薄い水色のブラウスも汗で下着がうっすらと透けて見えてしまっていた。わあ。
親しげにその人は続けた。
「南大和高校ってわかるかな?」
「南大和高校、ですか? 知ってますよ」
なるほど南大和高校(ナンコー)に行きたいのか、確かに最寄り駅はここで合っているのだがあくまで『一番高校から近い駅』がここなだけであの高校、半径二キロ以内に線路が通っていないという都内のはずなのに現代っ子に優しくないまさかの立地なのだった。それは市の端に位置し、しかしこの辺りではそこそこの公立校なのでそんな立地にも関わらず割と人気の学校だった。
私がすぐ目の前のバス停から一本で行ける事を教えると女性は嬉しそうに笑った。特徴的な八重歯がちらりと見えて、なんだかすごくかわいらしかった。
「ホントありがとう! いや私今日ここに来たばっかりでね、携帯の充電も切れるし……暑いし……もう帰ろうかと思っちゃったけどそんなわけにもいかないしでさー。でも市の端って! なんでそんな不便な所に建てたんだろうね」
それに関しては同意である。女性はお礼を言って回れ右をしようとしたのだろうが、視界に入ったソレを見て興味を持ったようで不思議そうな表情をして、それから私の方を向いて――。
「そのバイク……カッコイイね!」
それじゃ! と言い放ち親指を立てて颯爽と去っていった。
かあっとなぜか私の顔に熱がこもった。それこそあの人がこの自転車に乗ったほうがものすごくカッコよさそうだとか思いつつ、私は自転車に跨りペダルに乗せた足に力をこめた。
このまま線路沿いを行けば十五分ほどで隣の市の中心街に着くだろう、そこで昨日みたいに駅前調査をすればもう後は本当にサイクリングでもしてしまうのもいいかもしれない。
後は事務所に行って今日の事を報告して終わりだ。所長は別に何日か懸かってもいいと言っていたけれど、できることはさっさとやっておきたい性分だし、早いほうがいいだろう。
そんな事を考えながら線路沿いの道をひた走る内に、不意にさっきの女性の事が頭に浮かんだ。
(そういえばあの人、私の高校に一体何の用だったんだろう)
ああ今日は、本当に暑い。
事務所に戻ったのは空のオレンジが暗く青みがかって来た頃だった。結局サイクリングは実行され、調査とはあまり関係の無い人気の無いところを遠回りで帰ってきたり、普段使われないような裏道を探索したりと、後半はもうほとんど探検しているようなものだった。とりあえず裏道で暑さで伸びていた野良猫達がかわいかったからそれだけでも寄り道した甲斐があったというものだ。
私は事務所が入っているビルの一階にある駐輪スペースに自転車を止め、二階の事務所への階段を昇る。このビルは四階建てなのだが現在使われているフロアはうちの事務所のある二階だけで、一階、三階、四階は目下空き部屋、もとい空きフロアだった。
なんでもこのビルのオーナーが所長の知り合いらしく、ビルの管理をするかわりに所長が格安で借り受けているのだそうだ。
「ただいま戻りましたー」
扉を開け、そう入り口で言ってみるも返事は無く、しん、と事務所の中は静まり返っていた。誰もいないのかな? でも鍵は開いていたしそれは無いだろう。ああ、もしかしたら奥の作業室にいるのかも知れない。そう思い作業室の扉を開けてみたがそこにも人の気配は無かった。
んん……? 念のために部屋の真ん中のガラクタ山を迂回して作業台の方も確認してみる。入り口の方からは私の身長では奥にある作業台は全く見えないのだ。
しかしやはりそこにはやはり誰の姿も無かった。もしかして本当に誰もいないのか?
所長に連絡を取ろうと携帯を手にした時、何か、事務所の方で動く気配がした……ような、気がした。
即座に作業室の入り口から事務所を見渡す……が、そこには静寂しかなく。そういえば事務所に入った後鍵を閉めていなかったことを頭の端で思い出していた。
息を殺すようにして、視線を事務所の全体を一つ一つ確認するように移動させる……どこかで、蝉の鳴く声が聞こえてきていた。
汗が頬を伝う。どうやらずいぶん前に空調を切っているようで、外よりも蒸し暑い。
何秒そうしていただろうか…………。
…………。
ふむ、誰もいないなら仕方ないな。
流石に少し疲れたので、警戒しながらも私は空調の電源を入れ、応接用のソファに座って一休みすることにした。
ちょっと待ってみて所長も帰ってこなかったら携帯に連絡入れて帰ることにしよう。もし帰ってきたらとりあえず今日の報告をしてから帰ろう。報告すべき事柄を頭の中で整理する。そうだ、メモでも取っておこうか。うん……やっぱいいや。ちょっと疲れちゃった。
目を軽く閉じて一つ、深く息を吐く。結局のところ、私が自分の足で走り回ったところでなにもわからないのだ。一応やれることはやろうとは思うのだが、果たしてそれが正しいのか、意味のある事なのか。なんにせよ、まだ始まったばかりだ、あせることはない。
それにまだ実害がでてるわけでもなし。だからこの件は所長や例の組織の人達に任せて私は夏休みを満喫しようではないか。なにもなければそれが一番だし。
そんな、気楽な気持ちで涼しくなってゆく空気を感じながらソファの柔らかさに身をゆだねたのだった。
――後ろから、影が一つ。忍び寄っていた。
その影は私の座っているソファのすぐ後ろまで迫っていた。隔てるものはソファのみで、もう手を伸ばせば届くであろう位置まで来ていた。
今までどこにいたのだろうか、私が入ってきたときにはすでにいたのか。それとも私が作業室に様子を見に行った隙に入ってきたのか。まぁおそらく前者だろう。
先に動いたのは、私だった。右手を左の肩の後ろにすばやく回し、その影を掴む。
「う、おうっ」
意外だったのか、そいつは驚いたような声をあげた。私は片手でそのまま体の前までそいつを持ってくる。
「なんだよう、気づいてたのかよう。せっかく驚かそうと思ったのによう」
「へへーん。誰の魔力で動かしてもらってると思ってるのさ。最近じゃ集中すれば気配くらいはわかるんだよ」
軽くでこピン。後ろから近づいていたのは、レオだった。どうやら私を驚かそうと事務所に潜んでいたらしい。