千歳の魔導事務所
一歩ずつ、炎の虎に近づきながら淡々と所長は続ける。
「だから自分の力を知らない、それが何に対して有効かそうでないか。目的も手段も浮ついている」
『〜〜〜〜ッ!!』
一つの大きな火の玉が所長を包む。弾けることなく纏わり付くように所長の身体を覆い、瞬く間に所長は橙色の炎で燃え上がる。
それでも、所長は一歩ずつ変わらずに距離を詰めていった。
その炎を眺めるように自分の手を見ながら所長は続ける。
「この炎は肉体を焼くものじゃない。これは相手の魔力を燃料のように、そして身体から無理やり引き剥がすようにして苦痛を与えるものだ」
……そういうことか、だとするとあの猫にとって所長は天敵みたいなものだ。
『ダッタら……ナゼお前達に効カナイ! 生物デハナイのカァ!』
声は威嚇するようだったが虎は明らかに怯えていた。所長が近づく毎に少しずつ後ずさりをして、とうとう壁際まで追いやられてしまった。
「ああ、彼女に効かなかったのは単純に火力不足だよ。その密度になってようやく傷をつけることはできたみたいだが、まあその程度だということだ」
『ナラ、お前ハ……』
そういうことなら所長にはその手の攻撃は効かない、なぜならば――。
「ああ私か。私はただ単に――」
「――魔力なんて元から持ってないですもんね、所長」
「おお、いきなり出てきたな。まあ丁度いい、大丈夫そうならちょっと手を貸してくれ」
時間が経つにつれ、私の視界と心は次第に紅さが薄れていった。
魔力だけは相変わらず紅いが、あの猛り狂うような勢いはもう無かった。
「世界は広いんだよにゃんこちゃん。だからもう、休みなさい――」
『――! 身体ガ……!』
所長が紙のような物を持って、虎の首の辺りから腕を突っ込んだ。途端に虎は時間が止まったように動かなくなる。
「ここじゃちょっと場所が悪いわね……そう、れっ!」
突っ込んだ腕でそのまま、虎を比較的開けた倉庫の中心付近へとぶん投げた。
大きさの割りに小さな音で地面に横たわった虎の周りに、所長はその辺にあった棒切れでなにやら文字や模様のようなものを書き始めた。
それを書きながら所長は言う。
「このままだとこいつは自身の炎に精神まで焼かれて助からない。だがそれだと色々と面倒だ、だから一旦助けるがいいね?」
そう聞かれてさっきまであった憎しみがまた顔を出した。……レオ……。どうしてもやりきれない気持ちになるが、今だけはそれは心に押し込めておくことにした。
「別に……構わないです。本当は嫌ですけど」
「まあそう言いなさんな。今ならまだ間に合うんだ、色々とね……さあできた、こっちに来て」
その文字だか模様だかわからないものを書き終えたようで所長は私を呼ぶ。それはどこかで見たような、英語とも言えなくもないような形をしていた。
「ここに手を置いて、魔力がこの猫全体を包むように集中してみて」
言われるままに左手を置いて集中してみる。私は右利きだが今は間接の数が増えてしまって動かないので左手だった。
「その右腕……痛くない?」
所長が心配そうに横から聞いてきた。今集中してるんだからちょっと黙っててもらえませんかね、それに――。
「……痛いに決まってるじゃないですか……ホントもう……泣いてもいいですか」
ちょっと前から加速度的に痛みが襲ってきている。きっとさっきは極限状態だったから大丈夫だったんだろう。……もう一回紅くなろうかな。
「後で、後でなんとかしよう。今はとりあえず死にそうなやつをなんとかしてからだ」
そして何かががっしりとはまる感じ、それを感じてからすぐに虎の炎は小さくなっていき、最初見たときのような白い猫の姿になった。
身体には何か紙のようなものが張られていて、そこにもなにか地面のものと同じような文字が書かれていた。
『……なんなんだ……本当にもう、なんだっていうんだ……』
猫の声が聞こえてくる。私が言うのもなんだけど、それには同感だった。私自身の事も含めて。
「そんな色々諦めたように言うもんじゃないよ、力の使い方さえ間違わなければまだまだいくらだってやり直せるんだから」
死屍累々、無事でいるものなんて所長以外誰もいないこの状況で言うそんな言葉だったが、不思議と私には微かな説得力を感じさせてくれるのだった。
『じゃあさ……これだけ教えてよ……君たちって、本当に人間なの……?』
「人間だよ、まぎれもなく。ただほんのちょっとだけ――」
所長は私を見て、おそらく不安そうな顔をしていた私を安心させるように微笑んで答える。
ああなんだか、この人にはやっぱり適わないなあ。
「――外れ者と、規格外なだけさ」
堂々と、胸を張ってそんなこと言ってのけるのだから。
「さて、次だ。あそこの入り口で死にそうなやつ。あれが一番やばいでしょ」
猫は沈黙し、所長は言った。
そうだ、玲華さん。あれから全く動いてないようだけど大丈夫だろうか。
私と所長が近づいてみてみるが、一目には重大な怪我などは無く少しだけ安心する。
所長は玲華さんをゆっくりと仰向けに寝かせ、身体や呼吸などを確かめている。
「あの猫にやられたのか……だったら魔力さえなんとかできれば見込みはあるね……」
「助かるんですね? 良かった……」
「見込みはある、と言ったんだよ。私にはどうしようもないから頼んだよ」
う……そういうことか……。でもなんとしても助けたい、昨日と今日で要領は掴んだ。
感じは昨日、レオに言われて玲華さんの傷を治した時のように。手をとって集中する。
「あ、自分の怪我は治そうとしちゃだめよ、あくまで相手の怪我だけを治すように集中しなさい」
そこで追加注文が入る。でも確かに玲華さんの弱り具合はひどく、私に回すくらいなら玲華さんに集中しろということなのだろう。
そして一分もしないうちに、土気色をしていた玲華さんの顔は頬がほんのりと紅潮し、弱々しいが確かな息遣いを始めた。
「ほお、これはこれは……流石だね。良し、これでこいつも大丈夫、死にはしないでしょ」
所長はそういってまた倉庫の中へ歩み入った。
私も痛む腕を庇いながら黙って付いて行く、意外とこの痛みは耐えがたく、あまり無駄口も叩きたくなかったのだ。
着いた先はミキのところだった。所長はそこで屈み、ミキの身体を玲華さんと同じように確かめる。
「気絶してるだけかな……? 顔色もいいし……てあれ、この子指折れてんじゃん! それに……うわ……これは、ひどいな……」
「ミキ、そんなに……ひどいんですか……?」
嫌な予感がした。もしとりかえしのつかないようなことになってたら私は……。
「友達? そう、なら良く聞いて。まず体中の組織へのダメージが深刻なの……手足の骨は砕けてるし、筋もいくつか切れてる……もう一生まともに歩くこともできないかも知れない」
「……ちょっとあの猫殺してきます」
また少し視界が紅くなる。
だが猫を襲撃しようとする私を所長は後ろから服を掴んで止めた。



