千歳の魔導事務所
身体をとうとう支えきれなくなりうつ伏せに倒れこむ。辛うじて動く右腕はそいつを掴もうと力なく差し出されるが、行儀良く座って私を見下す白猫には遂には届かなかったのだった。
そこからしばらくは実際に拷問だった。もう指一本も動かせなくなった私はただただ一定の、しかし非道(ひど)いレベルでの苦痛を受け入れるしかなかった。
いっその事気絶でもしてくれれば良かったのだが人というものはそう簡単に気絶できる構造にはなっていない。
一線を越えた苦痛に意識が霧散しそうになると、その苦痛がまた拡散した精神を掴み取って否応無しに私に痛みを叩きつけてくる。
そうして耄碌(もうろく)と覚醒を何度繰り返しただろうか、炎はなんの前触れもなしに私の身体から消え去った。
しかし消えたところでもう私にはなにもできなかった。炎は私から生命維持に可能な最低限の力だけを残し、それ以外の全てを焼き尽くした……。
閉じることも見開くこともできずにいた瞳は、最早目の前の映像をただ脳へと送るだけだった。
だからその猫の背後から現れた二つの人影、大きい方が小脇に何か抱えていたのがあの子だとはとても、その時の私には理解することができなかったのだった。
――時間が少しだけ過ぎ、ほんの少しだけど意識が明瞭になる。少なくとも目に見える範囲での状況を分析できそうなほどには。
熱くない炎に全身を焼かれた後、私は現れた二人の人物の華奢な方に担がれて、中心に人々から奪った力の積んであるあの倉庫の隅に放られていた。
倉庫は正面入り口が少女の蹴りにより歪んでしまって開かなかったので裏口から入った。
中には白猫、それと一緒にいた少女、両手足を捲ったクールビズ姿の男――それに担がれて私、そして青い作業着を着た男に小脇に抱えられてあの子……イレギュラーがいた。
作業着の男の方はその子を私の傍に寝かせるとすぐ外に出て行ったようだった。
首さえも満足に動かないが幸運にも視界の中にその子はいた。現実を確かめるように隣に横たわる少女を見る。
外傷は……制服から露出されている腕や足に擦り傷と、手首に縄か何かの縛った痕がある、おそらくここに持ってこられるまで縛られていたのだろう。
昨日見たときには艶やかな絹のようだった黒髪は暗く色が沈んだようになり、乱れて横を向いた顔に半分かかっていた。
そしてその奥から見える肌はおよそ人の肌としては気味の悪いほどに蒼白く、瞳は虚ろに少しだけ開かれそこにはなにも映っていなかった。
(そうか……ごめんな……がんばったな……)
当然あの猫の使い魔の姿も見えない、恐らくこの子の前にやられてしまったのだろう。
……私の口が動いたのならきっと奥歯を噛み締めていたはず。
私の指が動いたのならおそらく血が出るほどに握りしめるに違いない。
私の身体が動いたのなら――間違いなく私はあいつらを殺している。
しかし現状瞬きさえも満足にできない私は瞳からたった一粒の雫を滴らせるくらいしかできなかった。
目の前の少女にはもう――命が宿っていなかった。
「――仕方なかったんだ。狂ったように暴れて、加減するようにはしたんだけど……動きが止まったと思ったら……もう遅かった」
横になっている私の頭の後方から男の声が聞こえてくる、それはどうやら私を担いできた冴えない男のもののようだ。
「そっちだって柳さん、だいぶ怪我してるじゃないか。その子は特別なんだろう? そんなに手強かったのか?」
誰かと会話をしているように話しているようだが声はその男のもの一つしか聞こえなく、完全に視界から外れていたので一体何に向かって喋っているのかはわからなかった。
消去法で言えばあの少女なのだが、どちらかといえばこの空間で響くのは男の声よりは少女の声だと考えるとそれもあまり説得力のある話しではなさそうだった。
「そうか……まあお互い無事でなによりだよ。それで、これからの事なんだが――悪いがその前に会話を経由してくれるとありがたい。どうもこれだと自分の心の声みたいなのと被ってしんどいんだ」
「……しょうがないなあ」
と、ここで少女の声が聞こえてくる。紛れも無く先ほど聞いたあの少女の声だった。
「いい加減慣れてほしいものだよ。いつも誰かが傍にいるわけじゃないんだからさ」
「むしろお前が人語を喋ればいいんだよ。理解できるなら可能だろ」
「……構造的にしんどいんだよ。声帯からなにから人語を発音するようにはできてないからさ」
これは……察するにあの男と、そして猫の意思との会話のようだ。
だとしたらあの少女は協力者だと思っていたが、そんなことはなくあの大勢で襲い掛かってきた人々と同じくただのあの猫の僕(しもべ)に過ぎなかったわけだ。
男の声が若干近くに聞こえてくる。
「俺が慣れるしかないのか……それは置いといて、まずこの人達は……何者なんだ?」
「そんなこと僕に聞かれてもわからないよ。でもその大きいほうは僕を殺しに来てたのは間違いないよ。それよりも、女の子の方が僕には気味が悪かったな。奪ってもないのにチカラを持ってなくて。だから怪しいとも思えたんだけどね……でも今はチカラがあるみたいだね、なんでだろう」
軽い足音が聞こえ、私を飛び越えて視界の中に白い猫がフェードインしてくる。
その猫は横たわる少女の身体の横に座った。
と、爆ぜるように瞬間的に飛び退いて、再び視界から猫は消えた。男が焦ったような声で聞く。
「どうした? まさかまだ――」
「いや、命はもう無くなってる、それは確実だよ。それよりびっくりした……すごい嫌な感じのチカラだったから……でも、なんだろう……その子とも似てるチカラな気もする」
「柳さんのと? なんでだろうね、仲が良かったから?」
「そうかもしれない、肉親とか近しい者なら似ることはあるかも。でも友達程度だとどうだろう……」
友達。そうか、この子とそこにいる子は友達だったのか。
本当に悪いことをしたな……この若さで友人の死は耐えられるものじゃないだろう。それでも生き残った者は生きなければならないのが辛いところだよな。
「うーん……まあそれは置いといて、だ。どうする? なにかしたほうがいいか?」
男がもう動かない少女の顔を覗き込みながら言う。
「いや、何もしなくて大丈夫だよ。もとよりその子はもう死んでるし、もう一人の方も僕がチカラをほとんど燃やし尽くしたから、もうそんなに長くないと思う。やるなら後処理だね」
・・・ ・・・
淡々とそんな事をその子の、その口から発する。こいつらは、本当に――。
「そうか……じゃあまずはこの子だけでもなんとかしよう。お前が舞樫の人の認識の外へこの子の事を除外できるとはいえ、さすがに死体があるのはいただけない。確か近くに堀があったからそこまで運ぼう、ほら手伝って」
「しょうがないな……暑いからさっさ、と、すま……せ……」
言いかけて途中で止めてしまった。
「どうした?」
男が聞くが返事は無い。私は首を、気合で動かしてその子の顔を見る。