東奔西走メッセンジャーズ 第二話
「夕那ちゃんから春のおすそ分けよ、私一人で楽しんじゃうのもつまらないから、丁度良かったわ」
「ああ、昨日の」
昨日の喫茶店ストレイシープからの帰り際、綺麗なマスターと可愛い店員さんが、『春がちょっとね』と言いながらくれたのはこれだったのか。
「店の常連さんから貰った、桜のフレーバーの和紅茶なんだって」
ああ、この匂い桜か……それは判ったけど。
「和紅茶?」
聞きなれない単語に戸惑う俺を横目で見ながら、先輩は自分の分のカップを手にしてその香りをしばし楽しんでから、口を開いた。
「文字通り国産の茶葉を使った紅茶なんだけだけど、自然な甘みがあってストレート派の私は好きよ……しかし、私のお茶の師匠に1年間付いててそれは情けないわねー」
「……もしかして、氷川教授の事ですか」
「もしかしなくてもそうよ」
記憶を辿ると、確かに高価そうな和洋のお茶の缶とティーセットが論文や学術書、会報、紀要やらと並んでしれっと置かれた研究室の佇まいを思い出せる。
それと共に、高価そうなティーカップを手にしながら、俺の卒業研究を苛めてくれたほっそりした姿も。
教授の「お茶会」というと、ゼミの生徒からすると胃が痛い記憶しか無く、従ってそこで出されたお茶の味など覚えていよう筈もない。
「弟子だったから、寧ろ教授の出してくれたお茶にいい思い出が無いのかも」
「不幸な事ねぇ、瑠璃ちゃん位初心者に優しいお茶の先生も居ないのに」
何時聞いてもまりな先輩の言う“瑠璃ちゃん”と、俺の中の“氷川教授”の間のギャップが埋まっていく気がしない……というか、ジキルとハイド並に乖離してきているような気すらする。
(教授って男嫌いなのかな)
そんな事もふと思ったが、ゼミの生徒を男女の分け隔てなく苛めていた姿を思い出して、俺はその考えを打ち消した。
「いつか、その親切な瑠璃ちゃんを紹介して下さい……」
「女の子の素顔はね、頑張って勝ち取るものなの」
「……それ、勝ち目有りますかね?」
「さぁ?良いんじゃない、玉砕したって死ぬわけじゃ無し」
「にゃーふ」
無責任な化け猫達の言い種に若干の頭痛を感じながら、俺は目の前のシンプルな白いティーカップを手にして、その中で揺れる綺麗な琥珀色を一口啜った。
美味いな。
微妙な甘みと仄かな桜の香りがマッチしていて、確かにこれは春のお裾分けと呼ぶのが相応しいと思える。
一息ついて、紅茶の表面に映った自分の顔を見るともなしに眺める。
女の子の素顔か。
目を上げて、お茶請けのクッキーを欲しがるブタ猫の鼻面を笑いながら押し戻している先輩をちらりと見やる。
この人も……やっぱり仮面を被っているのかな。
5
「こんにちはー、紫乃ちゃん居る〜」
「なーごー」
勝手知ったる何とやら、今日は店の方ではなく、馬籠商会の裏手にある工房に回った先輩が引き戸を開けて、中に声を掛ける。
その先輩とデブ猫の後ろから、俺も中を覗き込んだ。
「……はー」
中は……何というか、それこそ自転車だらけだった。
地面に置ききれないのか天井からも、ホイールもサドルもハンドルも外されてフレームだけになった奴がぶら下がっている。
ただ、物が溢れて居ても、それらが何者かの意思の下にちゃんと統御されて配置されているのだろう、雑然とした印象を感じることは無く、俺はこの工房に好感を抱いた。
それは、教授のお供で、唯一無二の仕事をすると言われる中小の工場を巡った時と同じ感触を覚えたからだろう。
「まりなさんと、野良ちゃん?」
……いや、“ちゃん”って柄じゃ無いだろ、あの猫は。
隅の方で、屈んで何やら作業をしていた紫乃ちゃんが、先輩の声に答えて身を起こす。
「あ、沢谷さんも……いらっしゃい……ませ」
相変わらず俺に向き合うのが苦手な様子ではあったが、それでも昨日よりは聞き取りやすい声で挨拶をしてくれた。
「どうも今日はお世話になり……」
そこまで口にした所で、彼女が手にしていた工具?の凶悪さに、俺はギョッとした。
(まさか、対俺用の護身用の得物じゃあるまいな)
右手には最大サイズに近いモンキーレンチ、左手には握りの付いた、平たい鉄の板の先から短く切った自転車のチェーンがぶら下がっている、なんとも凶悪そうな代物が握られていた。
可憐で清楚な外見との乖離が物凄い。
だが、まりな先輩は流石に、これが何なのか判るらしい、ちらりと奥を見てから紫乃ちゃんに笑いかけた。
「スプロケ洗ってたの?それとも増し締め?」
「いえ交換です……大雅(たいが)さんのORCA(オルカ)をコンパクトクランク化して、スプロケを11-28にした上でオーバーホールしておくよう頼まれましたので」
「佳津子(かつこ)ちゃんがその貧脚一般人仕様?」
相変わらずの自転車語が飛び交っている……。
「お前さんには、彼女たちの会話の内容は判るのかい?」
「にゅふん」
俺の傍らで大欠伸をしていたブタ猫に声を潜めて話しかけたら、当然だと言いたげに尻尾がピンと立った。
……相変わらず憎たらしい奴だ。
僅かな間、考え込む様子を見せていた先輩だったが、何かに思い当たったのか笑顔を浮かべる。
「そうか、ミハラ高原ヒルクライムが再来週じゃない……出る気が無かったとはいえ、やー不覚だったわ」
「まりなさん、出ないんですか?」
紫乃ちゃんの癖だろうか、疑問があると小さな形の良い顔をちょっと傾げながら、黒目がちの目で相手の顔を覗き込むような仕草を見せる。
まぁ、俺に向けてくれる事は無いだろうけど、大概の男は、これ一撃で参ってしまう気がする。
(自覚の無い美少女ってのは、ある意味悪女より性質が悪いのかも……)
勝手な事を考える俺の前で、恐らくは自覚なき美少女と、フランクすぎる美女の会話は続いていた。
「私、昔から坂登るの嫌いなのよ、ヒルクラは夕那ちゃんにお任せだったし」
「まりなさん、凄い速かったって、大雅さんから伺ったことありますよ」
「あの頃は夕那ちゃんが引っ張ってくれたから、死に物狂いで後を付いて登ってただけよ、自発的にはやりたくないわねー、それに」
「それに?」
問い返す紫乃ちゃんに、先輩が苦笑を返す。
「その日は有名どころのメッセンジャー会社が臨時休業、もしくは人手不足だらけだからねー、ウチみたいな零細は稼ぎ時なの」
この話はおしまいと言いたげに、先輩は手をパタパタと振りながら、視線を少し奥に向けた。
その視線の先に、黒とオレンジに塗装された、優美な曲線を描くロードレーサーが佇んでいた。
色の印象もあるのかもしれないが、何となく獲物を前にして背中を丸くした虎のようにも見える。
しなやかな体に、圧倒的なバネと力を秘めた猛獣。
……あれ、こいつどこかで見た気が。
「にしても、彼女の決戦用の調整任されるなんて凄いじゃない、良かったわね」
「はい」
何か嬉しかったのか、そう答える紫乃ちゃんがはにかんだように笑う。
なるほど、女の子の素顔って奴には勝ち取るだけの価値があるのかも知れない、などとらしくない事を思わせるような、控えめだけど綺麗な笑顔だった。
……とそれはさておき。
「話の途中にすみません、それ、何の道具なんですか?」
作品名:東奔西走メッセンジャーズ 第二話 作家名:野良