東奔西走メッセンジャーズ 第二話
俺の言葉は自転車マニア達にとっては、余程間抜けな質問だったらしい、一瞬何の事を言われたのか理解できない様子で、二人が顔を見合わせた。
「もしかして……これ、ですか?」
紫乃ちゃんが、おずおずと左手の工具を上げるのに、俺は頷いた。
「ええ、何に使うんですか?」
「あー、確かに自転車でしか使わない特殊工具だもんねぇ」
「言われてみると……そうですね」
そう言いながら、二人が苦笑未満といった様子の顔を見合わせる。
「ま、実際見せてもらう方が早いかな……紫乃ちゃん、良い?」
「ええ、沢谷さんの自転車もスプロケットの緩みは拝見したかったですから、」
そう言いながら、紫乃ちゃんが俺の傍らに歩み寄って来た。
「お預かりしても?」
「あ、ええ、お願いします」
「はい」
そう言いながら、俺の愛車を受け取った彼女が、手際よく傍らのスタンドにそれを固定する様を俺は感心するように眺めていた。
手早いが手荒くない、スタンドに擦れて傷が付きそうな部分には布を巻いたりして保護する様が実に手馴れている。
(なるほど、先輩が信頼して任せるわけだ)
そんな事を思いながら見ている前で、彼女はペダルを回して、ギアをトップに入れてから、ブレーキに手を掛けた。
(あ、あれは外すの大変だよな……)
Vブレーキはワイヤーを固定しているネジを緩めなくても、タイヤを外すのに支障がない程度に緩められる機能が備わっている……いるんだけど、俺がやった時は随分苦労した物だ。
正直、「工具なしで簡単に緩められる」というフレーズがうそ臭く見える程……だった筈なんだけどな。
俺が見ている前で、紫乃ちゃんの細腕が、何の苦も無くブレーキを緩めた。
「あれが年季の差って奴よ、新人君」
俺の思考など、表情から全てお見通しと言わんばかりの様子で、先輩が隣で囁く。
「新人ですので、これからの成長にご期待ください」
「期待も何も、パンク修理技能として明日から同じ事をバンバンやるわよ、遠出する際の必須技能だし」
「……お手柔らかに」
次いで、彼女はホイールを固定するスキュワーのレバーを緩め、反対側の螺子を回しだす。
クイックリリース機能……っていうんだよな。
一応ここに来るのに輪行して来たから、Vブレーキの緩め方と、この機構は知っている。
「メンテナンスの何をやるにしてもこの一連の動作は必要な事だから、プロのやる事は良く見て覚えて置いてね、特にリアホイールを外す時はトップに入れる事を忘れずに」
紫乃ちゃんの作業を邪魔しないようにか、相変わらず小声の先輩に、俺も同じ程度のトーンの声を返す。
「トップに入れないとどうなるんです」
「チェーンとリアディレーラーが邪魔してホイールが外れないか、外せても死ぬほど苦労するかどっちかよ」
「……心して覚えておきますです」
「そうしなさい」
「ぶにゃふ」
そうこうしている内にリアホイールはつつがなく外され、紫乃ちゃんはしばし、それを眺めたり、スポークの辺りを触ったりしていた。
その視線は真剣そのもので、普段大人しやかな彼女からは想像も付かない、凄みすら感じる鋭い物だった。
彼女の雰囲気に押されて、工房内の空気がピンと張り詰める。
「卵とはいえ、流石に職人よね」
「ええ……」
普段はふてぶてしい鳴き声で合いの手を入れてくるブタ猫も、流石にこの空気を憚ったのか静かに先輩の隣で丸くなっている。
「あの……それじゃこの工具を使ってスプロケットを外しますね」
ややあって、自転車に向けていた鋭い物とは打って変わって、優しそうな、黒目がちの綺麗な瞳が、俺たちの方を向いた。
「先ず、スプロケットはこのロックリングという部品で取り付けられています」
そう言いながら紫乃ちゃんはトップギアの更に上に付いている平たい部分を指差した。
覗き込んでみても、ねじ穴もヘキサレンチが入る穴も開いてない
「……どうやって固定されてるの?」
「ネジですよ、ただこのままでは回せませんので、先ず、このスプロケットリムーバーを付けて、ロックリングを外せるようにします」
なんと言えば良いのか……例えるなら六角ボルトの大親分のような黒い工具を、彼女は差し込んだ。
「これで、スパナでロックリングを締めたり緩めたり出来る様になります」
「ほー」
昨日から、この店では感心しっぱなしのような気がするが、未知の分野の話だけに見るもの聞く事全て新鮮である。
「ただ、締める方にはこのままで回せますが、緩めようとしてもフリーホイールになってますので……」
彼女が反時計回りに手で回して見せるが、カチカチというラチェット音と共に、一緒にスプロケットも回ってしまう。
「ご覧の通りです、従って、緩める場合はスプロケット自体を固定してやる必要があるんです」
「で、こいつの出番ってわけ、別に自転車族御用達の喧嘩道具じゃ無いからね」
クスクス笑いながら、先輩が紫乃ちゃんに件の工具を手渡す。
「あ、このチェーンでスプロケットを固定するんですね」
強い力が掛かるから、鉄製の握りも必要になると。
「そうです、こんな感じで使います」
ぶら下がっている方のチェーンをスプロケットに巻きつけてから、先端に固定されているチェーンで押さえ込む。
そして、スプロケットリムーバーを、モンキーレンチを使って反時計回りに力を加える……と意外な程、呆気なくロックリングが緩みだした。
華奢な紫乃ちゃんが、さほど苦労した様子も見えなかったし……さほどキツク締まってなかったのかな。
それを見ていた先輩が、僅かに眉を顰めて、口の中でなにやら呟いた。
僅かに、「やっぱり」という言葉が漏れ聞こえたような気がして、気にはなったが、俺は注意を紫乃ちゃんの作業に向けなおした。
「後はスプロケットを外していくだけです、ご自分でされる際はスペーサーを失くさないようにだけ気を付けて下さいね」
自由になった多段ギア達を、一つ一つ取り外していく。
ロー側の大きなギアだけが3枚セットになっている以外は、全部ばらばらになるんだな。
「スプロケットはこうやって外します、交換時だけでなく、清掃するにも、外しちゃった方が楽なんですよ」
「にゃ」
紫乃ちゃんの隣で、成人病予備軍の猫も得意そうに俺を見上げる。
「……お前も知ってたのか」
「にゅふ」
まぁ、曲がりなりにも自転車稼業の釜の飯を食ってる先輩なんだ……それに、この猫なら知っていてもおかしくない雰囲気を醸し出している。
「猫の手を借りたい時にも、ふんぞり返って寝てるだけの不精猫だけどねー、そういうのは無駄な知識って言うのよ」
「なーう゛」
先輩の言葉に、なにやら反論する様子の野良に、紫乃ちゃんは優しく目を細めた。
「油で汚れたら折角の艶々の毛並みが台無しで……悲しいですもんね」
そう言いながら、彼女は作業用の手袋を外して、野良の背中をそっと撫でた。
「うにゃ〜う」
彼女の優しい言葉に、我が意を得たりといった顔をしている野良に、先輩は冷ややかな一瞥を投げた。
「そこのニート猫、何か勘違いしてるみたいだけど労働の汚れは勲章なのよ」
「……ぶー」
作品名:東奔西走メッセンジャーズ 第二話 作家名:野良