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東奔西走メッセンジャーズ 第二話

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「苛め甲斐がありますね」
「……どの辺りが?」
 それは野本が一番聞きたい部分でも有った。
 あの瑠璃がわざわざ推薦して寄越したとはいえ、自転車ど素人の青年に、いかなる魅力があったのか。
 野本の言葉に、まりなは微苦笑を浮かべて、足元に纏わり付いてくる野良に併せるように腰を屈めた。
「逆に伺いたいんですけど、彼の今日の出発時と帰って来た時の姿を見て、オーナーはどう思いました?」
「そうだね」
 そこで野本は言葉を切って、上を見上げた。
 庇を透かして、春の柔らかい日差しが降り注ぐ。
 直感的に感じた事を言葉に変換する事の難しさを感じながら、野本は言葉を摘み出すように口を開いた。
「何ていうのかね、“絵になるようになった”そんな気がするんだけど」
 勿論、野本の肥えた目からすれば、細かい部分では色々注文を付けたい所は多い。
 足の回転もスムーズではないし、姿勢も、体の捌き方もまだまだなってない。
 でも、帰ってきた彼の姿は自転車と自然に沿っているように見えた。
 人馬一体ならぬ、人車一体とでも言うべきか。
 そのアウトラインとでもいうべき、基本的な姿が出来かかっていた。
「ですよね、でも私はサドルを上げただけで、他は大した事は特に何も言ってはいないんですよ」
「何も?」
 野本の反問に驚きの色が浮かぶ。
 軽いギアで、足の回転数重視で漕ぐ方が速いとか、コーナーで安定する体重移動とか、その辺を見て覚えた……と?
「ええ、少しお尻が痛くなる事に関して乗車姿勢は説明しましたけど、それだけ」
 その言葉に、ふむ、というような声を喉の奥で発して、野本はしばし何かを考える様子で黙り込んだ。
 そんな野本の傍らに、野良がのっしりと座り込んで、物憂そうに毛繕いを始める。
「流石に瑠璃ちゃんが1年虐めて退屈しなかっただけあります。この一本のロングライドで随分“盗まれた”みたいですよ」
 そう言いながら、まりなは野良を挟むように野本の傍らに、軽やかに腰を下ろした。
「まりなちゃんが座るとは珍しいね、ちょっと疲れた?」
「まさか、軽く80km流してきた程度じゃ、ビールが多少美味しくなる程度です」
「そりゃそうだ」
 今頃は達成感に包まれた夢の中だろう通雄が聞いたら、さぞや傷つくだろうやりとりをしながら、野良屋のオーナーと社員は顔を見合わせた。
「その辺りの、飲み込みの良さが評価ポイント?」
「んー……確かにそれは有るし、非凡だとも思うんですけど」
 そこで言葉を切って、しばし考えを纏めるように、まりなは黙りこんだ。
 野本も無理には促さない、傍らの野良の背中を撫でながら、春の日差しを楽しむように、行きかう人々や自転車に目を向ける。
(たまには1週間位、店を休んで、Tikitぶら下げて旅に行きたいなぁ)
 BikeFridayの誇る、良く走る事とすぐ畳める事で定評のある野本の愛車だが、最近は長距離を走らせる事も少なく、彼の体共々錆が出てきそうで怖い。
(北海道一周とか楽しそうだよなぁ……もしくは四国八十八箇所のつまみ食いとか)
 麗らかな日差しに誘われたような野本の夢、それが傍らの社員からの声に破られた。
「なんか、こっちの予測が立たなそうな所が面白いんですよ」
 そこで言葉を切ったまりなだったが、野本の促すような視線を受けて、再度口を開いた。
「何ていうのかな、ロードレーサーに育てたかったのに、気が付いたらマラソン選手になってた……みたいな事が起きそうな、捻くれた感じが面白そうです」
 まりなの言葉に、野本が失笑する。
「褒めてるのかい?」
 野本の言葉に、野良の耳の後ろを掻いてやりながら、まりなは器用に肩を竦めた。
「まさか、此処の仕事には向いてるかもしれませんけど、堅気の社会人は難しそうって事です」
「自分の稼業になんてぇ言い種だい」
「客観的に見れば、自転車中毒患者の隔離都市で配達人やってるなんて堅気じゃありえませんよ」
 そう皮肉っぽく笑うまりなの表情に、野本はどこかで見覚えがあった。
 飄々とした彼女が僅かに垣間見せる、心の表象。
 彼女との付き合いはかれこれ5年になるが、この表情を見た記憶は一度しかない。
 あれは……いつの事だったっけ。
 だが、そこで追憶の海に漂い出す前に、野本は現実の方に頭を漕ぎ戻した。
「まりなちゃんとしては、気に入ったって思って良いのかな?」
「ええ、退屈しない子を送ってくれて、瑠璃ちゃんには感謝してますよ……正直、ちょっと走れてネットやショップで半端な知識を得ただけの自転車オタクに来られる方が困るので」
 ……相変わらず飄々とした顔をして言う事は辛らつだな。
「ま、社員二人の会社で、後輩が気に入らないなんて事が無くて良かったよ」
「ふふ、逃げ出さないように可愛がってあげますから、ご心配なく、オーナー」
「よろしく頼むよ、優しい先輩さん」
 そのオーナーの言葉に、軽い笑みだけ返して、愛車と共に野良屋のほうに歩み去っていくまりなと、その後に続くように、のそのそと歩き出した野良の虎縞の背を野本はベンチに腰掛けたままで見送っていた。
「そっか、気に入ったか……」
 そう呟いて空を見上げた野本の顔は、新人が有望そうだという報告を受けたオーナーの表情としてはどこか相応しくない、若干物憂げな物であった。
 

「鼻を摘もか」
「にゃー」
「耳元で怪しく囁こうか」
「ごろなーごー」
「だーりん、お・き・て、とか言っちゃうとか」
「にゅっふん」
「濡れたハンカチを被せてみるとか」
「に゛ゃーう」
 なにやら、俺を亡き者にせんとする化け猫達の気配を感じて、俺はもう少し寝て居たかった意識を無理に覚醒させた。
「ダーリンで願います」
「あら、狸寝入りだったの?」
 特に驚いた風も無く、先輩がニヤリと笑いかけてくる。
「あんまりにも不穏な内容だったんで、生存本能が起こしてくれたんですよ……今何時です」
「へぇ、四つで」
「……先輩」
 呆れた俺の顔を見やった先輩は、嘆かわしそうに首を振った。
「やれやれ、折角江都にいるんだから、先祖に敬意を表して落語や講談程度は嗜んでもバチは当たらないわよ……えーと3時20分ね」
 馬籠商会までは徒歩10分も掛からない、後30分は余裕があるわけか。
「ちょっと顔洗ってきます」
「はいはいー、じゃその間に目覚まし淹れておくわ」
「すみません、お願いします」
 片手を上げて給湯室に向かう先輩を見送って、俺は寝ぼけた頭から眠気を追い出すように軽く振った。
 会社の洗面台には石鹸がポンと一つ置いてあるだけだったが、使ってみると泡立ちも良いし、洗ってみると不思議なほどさっぱりした感じがする。
 無駄な匂いも付いてないが、実際に使ってみると一番肝心な洗浄能力が優れているって辺り、先輩が選んできた物だというのが何となく判る物だった。
 顔を拭いて応接に戻ってきた俺の鼻を、春の匂いがくすぐる。
「これは?」
 匂いの源はテーブルの上のティーカップに注がれた紅茶であった。
 ただ、その香りは俺の知る紅茶とは少し違う物。
 ……何だろ。
 よほど不思議そうにしていたのか、先輩が俺の方を見やりながら、くすくす笑った。