東奔西走メッセンジャーズ 第二話
「感覚を研ぎ澄ますってのを漫画の中の話だと思っちゃうのが現代人の不幸かな……そんなに特別な話しじゃないのよ。どちらかというと、普段それを意識していないから鈍ってるだけ」
「考えるな、感じろ、ですか」
「そういう事、ちゃんと判ってるじゃない」
くすっと笑うと、先輩の姿があっという間に俺の前に出る。
「ほれほれ、負けると恥ずかしいTシャツよ」
「一体どんな柄を想定されてますんで?」
「にゅふふふふ、この度ウニクロさんってば人気の美少女アニメとTシャツコラボをするらしいのですよねー、なんだっけなバンド活動が題材の奴とか聞いたけどー、可愛いわよ」
やばい、これは想像以上にやばい状況だ。
何としても勝つ。
いや、俺のなけなしの尊厳の為にも勝たなければならない。
そう覚悟を決めて、俺は脚の回転を早めた。
ちなみに……作品自体は嫌いじゃないぞ。
ぷるるるるるる。
ねこまんまの仮眠室にデフォルトの着信音が響く。
読みかけの雑誌から上げた視線が、若干の険を伴って電話機を睨みつける。
「居留守を決め込めないのが、商売人の悲しい性かねぇ」
一人嘯いてから、野本は手にした電話機の受話ボタンを押した。
「はい、惣菜の店『ねこまんま』でございます」
商売人の性と言うべきか、電話に出るときの声は気分に関わらず明るくなる。
『氷川瑠璃です、御無沙汰しております、野本さん』
「ああ、瑠璃ちゃんか、お久しぶり」
声がもう少し明るくなったのは、これは別に営業用という訳ではない。
そういえば、まりなちゃんや夕那ちゃんは、チョコチョコ会ってたみたいだけど、チーム解散後以来って事は、僕は2年ぶりか……。
年賀状のやり取りはあったけど、こうして言葉を交わすのは本当に久しぶりだ。
相変わらずの綺麗に澄んだ声だが、21歳になったばかりの人の声とはとても思えない落ち着きぶりも健在で、野本は何となく嬉しくなった。
『今はお時間大丈夫ですか?』
「大丈夫だよ、というか、そういう時間を見計らったよね?」
それには特に答えは無かったが、向こうで瑠璃が少し苦笑した気配があった。
「後1時間くらいしたら夕方の準備を始めちゃうからそれまでになっちゃうけど」
『流石にそこまでお時間を頂く心算はありませんので……』
「そう?旧友と話すのは楽しいから別に良いけど……今日の電話は旧交を温める為じゃないか」
『申し訳ありません、用事がある時ばかりで』
「それもまたお互い様だよね……で、今日の御用件は可愛いお弟子さんの件かな?」
『どちらかというと不肖の弟子ですね、御迷惑をお掛けしてませんか?』
そっけない言い様だが、これも瑠璃なりの気遣いという物なのは野本もよく心得ていた。
「僕は特に、昨日はまりなちゃんと一緒に、楽しくドタバタやってたみたいだけど」
『ドタバタ……ね。彼は頭は悪くないんですが、捻くれてて計画性が無いのが問題なんです』
頭が良い子だとは思っていたが、彼女が「悪くない」と評価しているって事は、こりゃかなりの物って事か……。
「昨日見た感じだけだけど、寧ろ頭の回転が良い分、無計画でも何とかなって来ちゃってた子に見えたけど……」
そこで、野本は言葉を切って、瑠璃の返答を待った。
野本の人物鑑定眼の鋭さも相変わらずのようだ、その見解を首肯するように瑠璃は肩を竦めた。
『全く以って仰る通りです……ところで今日から研修ですが、どんな感じですか?』
「帰って来ないと判らないなぁ……無事帰ってこれればだけど」
野本の言葉に、一瞬だけ考え込むような沈黙の後、程なくして受話器から苦笑が漏れる。
『ああ、まりなさんの“お散歩”ですか』
「うん、郊外のウニクロに出かけてったよ……大体片道40kmの所の」
なーと鳴きながら近寄ってきた野良の背中を軽く撫でてやりながら、野本は姿勢を崩した。
『そうですか、まぁ、80kmで音を上げるようじゃこの先続きませんしね』
初心者を送り込んだ張本人の、余りと言えば余りな言い種に、野本が珍しく失笑する。
「瑠璃ちゃんも人が悪いな」
『良い人になろうと思った事が、そもそも有りませんので』
偽悪趣味というには些かドライ過ぎる返答の後に、瑠璃は言葉を続けた。
『ただ、何とかなると思ってそちらに送り出した私の責任も有ります……駄目そうなら、早い内に遠慮なく引導を渡して下さい、後はこちらでどうにでもなりますので』
……なるほどね、研究室か何処かに一応席は用意してあるって事か。
清潔なベッドの上が気に入ったのか、丸くなって鼾をかき出した野良の耳の後ろを無意識に掻いてやりながら、野本はレースチームに入り浸っていた頃の瑠璃の姿を思い出していた。
相変わらず、人の見えないところで気を遣ってるんだな……。
何故素人同然の彼をこっちに送って寄越したのか……ちょっと聞いてみたくはあったけど、今回は止めることにした。
それに、野本には一つの確信があった。
「その点は心配しなくて良いよ」
だから、結構な自信を持って、その一言が言えた。
『……そうですか?』
珍しく断言した野本の言葉に、気休めは困ると言いたそうな瑠璃の声が返ってくる。
「うん、多分だけど彼は上手くやっていくと思う……これは彼を雇ったオーナーであり、プロレーシングチームで、数多くのレーサーを見てきた僕の言葉だと思って貰って良いよ」
野本の言葉に何を感じたのか、瑠璃の安堵とも落胆とも付かない微妙な吐息が、微かだが電話口から零れた。
『判りました、ではよろしくお願いします……お休みの所失礼致しました、そろそろ切りますね』
「ほいほい、久しぶりに話せて楽しかったよ、またね」
『ええ、それでは』
通話が途切れた電話機を充電スタンドに戻しながら、野本は野良の背中を突付いた。
「ふと思ったんだがアレかね、瑠璃ちゃんてツンドラ系なのかね」
「……うなーご」
そりゃツンデレだろ、と突っ込んでるように聞こえなくも無い、野良の鳴き声であった。
まぁ、永久凍土の女の意味なら、あながち間違いじゃないが。
「ウニクロまで、後1km位ねー」
勝負の時は来た。
俺のなけなしの尊厳を賭けた、一世一代の大勝負。
……何時の間にそんな大仰な話になったのか、という気分もしなくもないが、この位自分で盛り上げないと、目の前をスイスイ走る憎いアンチクショウへの勝ち目など無い。
明日の筋肉痛が何だー、俺はやるぞー。
決意を固めつつ、俺は仕掛けるタイミングを計りだした。
まぁ、作戦自体は大した話でもなく、要はラストスパートに賭けるってだけの事だ。
仕掛けるのは、先輩が僅かでも減速した時と、俺が全開で漕げる距離の兼ね合いが取れた所。
そこで一気に前に出て、出来たら先輩の進路をブロックしつつ駆け抜ける。
自分に実力があるか、自転車レースという競技に通暁していれば、自ずと他の方法があるのかも知れないが、現状の俺では、これ以上は望みようが無い。
後、甘いかもしれないけど、それなりにブロックさえすれば、レースでもなんでもない研修の走行なら、先輩もさほど無理に危険な追い越しは掛けないだろう、という期待もある。
作品名:東奔西走メッセンジャーズ 第二話 作家名:野良