東奔西走メッセンジャーズ 第二話
この場は形成不利と見たのか、聞こえなかったような顔で、野良は紫乃ちゃんの足に助勢を感謝するように頭を擦り付けてから、店の奥の方にのそのそと歩み去っていった。
「くれぐれもタイヤで爪とぎとか、馬鹿な事するんじゃ無いわよー……ここのはどれも高価いんだから」
最後の呟きは、零細企業たる野良屋の実質経営責任者でもある先輩の心からの声であろう。
……そういや、タイヤって幾らくらいするんだろ、高価って事は一本4,000円位するのかな。
実際の所、所謂決戦用と言われる各メーカーのハイエンドタイヤに関しては、その倍は出して欲しい代物ではあるが、当面沢谷君には縁の無い話ではある。
「確かに猫ってタイヤで爪とぎするの好きですよね」
「流石に23C(※注 タイヤサイズの呼び方の一つ、700x23cサイズの事)だと細過ぎてお気に召さないみたいだけどねー、ママチャリやMTBとかオートバイなんかでやってるわよね、あいつら」
「困った子達ですよね」
「ホントにねぇ」
暖かいのがお気に召すのだろうか、確かに大学の駐輪場などで、冬場にはオートバイのタンクやシートの上で、自発的に警備を買って出ている愛らしい毛玉連中が屯している様を良く見かけた物だが、まさか足元でそんな人類に対する破壊工作を行なっていたとは……。
ピッ。
そんな二人の談笑に、先輩のポケットから響いた短いアラームが割り込む。
「あ……もう5時、ごめんね、作業の手を止めちゃって」
ひょいと取り出したスマートフォンに軽く目をやって、先輩が申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「いえ、私の作業は問題ありませんけど……それよりお二人は大丈夫……ですか?」
「あ、仕事?そっちは、彼の研修期間中で、何も入れてないから問題ないんだけど……この自転車、流石に今日中に点検終了って訳には行かないよね」
駄目元で聞いてみる、という感じの先輩に、紫乃ちゃんが申し訳なさそうな表情を返す。
「微調整と増し締めだけで済むようでしたら、明日の朝にはご報告と一緒にお返しできますが……」
そこで彼女が僅かに言いよどむのを見て、先輩が諦めた様子で頷いた。
「やっぱ、オーバーホール必要そう?」
「そこまで必要かの判断は明日までお待ち頂きたいんですけど、拝見したリアホイールだけでもハブのグリスアップと玉当たりの調整、振れ取りが必要そうですし、後はチェーンも洗浄して注油が必要ですね」
「ま、チェーンは仕方ないけど……その状況だと、ヘッドパーツとBB周りも怪しいかな?」
「恐らくは……ですけど」
判る単語を拾っただけでも、何となく俺の自転車は馬籠医院に入院が必要そうな様子がヒシヒシと伝わってくる……だけど、今日80km乗った感じでは別に違和感も何も感じなかったし、寧ろ快調に走っていたと思ったんだがなぁ。
「すみません、それで今日80km走って来たんですけど……大丈夫ですかね?」
俺の言葉に、先輩が心外だと言いたそうな顔を向けた。
「あのね、明日にも空中分解するって話しじゃ無いわよ、第一私も昨日ざっと見てるんだから、そんな危ないのに、君を乗せるわけ無いでしょ」
「ですよねぇ、だったら、そんな急に整備して貰わなくても良いんじゃ無いですかね?また馬籠さんの都合の良い時に伸ばすとか」
正直、買ったばっかりの車を車検に出すような気分がするんで、あんまり気が進まないというのもあるし、既になにやら先約が有るという彼女に預けたら、俺の手元にあいつが帰ってくるのって1週間以上先になる気がする。
その辺の俺のみみっちい想念を見透かしているのか、先輩は軽くため息をついて、俺の愛車のサドルをポンポンと軽く叩いた。
「確かに、現状でも週末ライダーや、通勤で一日10km乗る程度なら問題にもならないレベルではあるわよ」
そこで先輩は言葉を切って、俺の自転車の前輪を軽く手で回した。
くるくる……銀色のスポークが室内の明かりを反射しながら緩やかに回転を始める。
だが、掛けられた僅かな力では、その回転運動を維持する力は足りなかったらしい、1分も保たずに、前輪は回転を止めた。
「ただね、玉当たりが均一じゃないベアリング部分やら、振れちゃった状態のホイール等々、そんな状態で乗り続けてれば、車体や部品に余計なダメージが蓄積していくのは判るでしょ?」
「そりゃまぁ、確かに」
「で、私たちの稼業は、メンテしながら乗っても1年で駆動部総取替え、なんて猛者が珍しくない仕事なの。そして1日100km365日乗る自転車を安全に事故無く乗るためには、最初の整備状況が想像以上に重要なの」
真剣な表情の先輩が、先に紫乃ちゃんが整備していた、大雅さんの自転車の前輪を軽く回して見せた。
するするするする。
先輩の掛けた力は大差ないように見えたが、静かに、そして俺のそれより圧倒的に速くホイールが回りだす。
回転の質そのものが明らかに違う。
何より、全くその回転運動が収まる様子すら見えない程の、滑らかな動きに魅入られる。
凄い……。
部品の質という物が最終的に製品にもたらす差に関しては、ある程度は氷川教授に叩き込まれた身ではあるが、単純な構造の物で、これ程の違いを示す様を見ると、やはり驚かされる。
俺の表情の変化を読み取ったのか、先輩は頷いて言葉を継いだ。
「ホイールの値段だけで多分50倍以上は違う物を比較させたのはフェアじゃないとは思うけど……判る?この回転の違いは100km走る中で、最終的に君の体と部品に余分な疲労として毎日蓄積されていくの」
「……何となく判りました」
80km走って悲鳴を上げている俺が、その細かい違いが判った訳じゃない。
垣間見えたのは、先輩がどういう部分に気を配って、日々の仕事をこなしているかという部分。
自転車を仕事で使うって……そういう事なんだ。
1日100km走れる力は有って当然、その上で、いかに日々の疲労を軽減し、機材に起因する故障のリスクを避けるかという、部分が重要になる。
心の中で頷いて、俺は一歩下がった所で、俺と先輩のやり取りを静かに見つめていた紫乃ちゃんに向き直った。
「整備の見積もり、お願いします」
彼女は暫く俺の理解の程を見定めるように顔をじっと見てから、プロの表情で頷いた。
「はい、明日の朝までに……」
そこで、顔を上げて……彼女は相手が俺だった事を今更ながら思い出したのか、真っ赤になった顔を俯かせて、慌てて先輩の影に隠れた。
「点検して……見積もり……だします」
「ん、よろしくお願いね」
微苦笑を浮かべた先輩が彼女の肩をぽんと叩いた。
……やれやれ、今回オーバーホールまで任せる上に、元プロの先輩の信任も厚い事だし、ゆくゆくは俺の自転車の専門ドクターになって貰いたい娘ではあるが……どうも前途多難なようで。
夏ほどではないが、春の夕暮れも薄明るいものである。
今日もまた赤く染まる江都の街を、馬籠商会から野良屋まで徒歩で帰るメッセンジャー業界の二人と一匹。
明るさも暗さも曖昧に溶け合う時間。
眩しいのが嫌なのか、のたのたと陰になる辺りを歩んでいる幻の珍獣の背中を目で追っていて、ふと思い出した言葉が有った。
作品名:東奔西走メッセンジャーズ 第二話 作家名:野良