ネコマタの居る生活 第一話
二ヶ月も猫と延々過ごしていると、連中の言いたいことも何となく分かってくる物だ。
「違うのか、それじゃ僕はもう行くね、室長に宜しく」
ルリならまぁ、所内で迷う事も無いだろう。
立ち上がって歩き出す、その後を付いてルリも歩き出した。
「……ん?」
立ち止まると、ルリも止まる。
「僕に用なの?」
また、小首を傾げる。
(訳が判らないな……)
双方、その種族内では上から数えた方が早いだろう頭脳の持ち主同士ではあるが、異文化コミュニケーションとは、かくも困難な物である。
「ま、良いや……用が出来たら、鳴くかなんかして呼び止めてよ」
そう言って歩き出す透の後から、ルリがやはり歩き出す。
こうやって散歩する猫も居ない訳じゃない、あまり気にしても仕方ないだろう。
(元から変わってる猫だしね)
時折通り過ぎる、他の研究に従事している同僚と挨拶を交わすと、大体が次いで視線を彼の足許に落とし、眼を細めたり驚きの表情を浮かべたりする。
「良いねぇ、珍しくキッチリしたネクタイまで締めてお嬢様とデートかい?」
「いえ、どっちかというと姫と従者って感じです」
「違いないな」
「そこは否定して下さいよう」
等というやり取りが交わされる程度に、研究者の間が親密で、かつ双方に精神的な余裕があるこの研究所に身を置ける幸せを、透としては感じざるを得ない。
ちょっとしたレストルームを兼ねる自販機が置かれた一角は、まだ殆どの人間が食堂で昼食の最中という事も有り、人気は無かった。
透が愛飲するのは、あまりメジャーではない無糖の紅茶で、外の自販機でも滅多に見かけないこれが置いてあるのは、有り難い事であった。
商品取り出し口に落ちてきたペットボトルを取るために屈んだ透の視線が、こちらをじっと見ているルリのそれと合う。
「付き合ってくれたルリちゃんに何か奢って上げたいところだけど……猫が喜ぶ飲み物は無いよね」
みゃぁ。
「え……?」
それはまるで、お気持ちだけ貰います……と返してくれたような、柔らかい澄んだ響きの鳴き声で。
ルリちゃん……鳴くんだ。
確かに、室長は極めて稀に鳴くとは言っていたけど、こうして自分が耳に出来るとは思っていなかった。
「いやはや、外見に相応しい美声だ……」
そう呟きながら歩き出した透の後を、褒められて悪い気はしなかったらしいルリが、僅かにヒゲを立てながら、優雅な足取りで歩き出した。
なーーーごー。
「ああもう、御免ね、君にこの卵焼きは甘すぎるの」
ふなーお。
「鶏肉の塩麹漬けは塩が強すぎるの!」
にゃにゃにゃー。
「なんでプチトマトなんか欲しがるの、君は!これは玩具じゃないのよーーーーー!」
どうやら有理さん、頑張って可愛いお弁当を作っているようである。
カリカリを出してやったり、鼻面をブロックしたり、有理の弁当を見て荒ぶる狩人となった猫たちとの戦いをひとしきり終えて、有理は一息吐いてお茶を啜った。
「これだけ猫ちゃんが暴れるって事は、この部屋で人間が食事するのって初めてなのかな」
食事をしながら猫と戯れるというのも実験プログラムの中に組み込まれているが、当然それは勤務時間内に組まれている物で、所員の昼食時に実験をするように指示が有るわけではない……。
が、こうして休憩時間にもデータが取れるなら、時間との勝負を続ける研究者としては、それはそれで歓迎すべき事には違いない。
……と思っての実験室内での昼食だったのだが、食事前だというのに随分と疲れてしまった。
須崎主任はお茶を買いに行くから、先に食べてて下さいとは言っていたけど……まぁ僅かなことだし、待ってた方が良いよね。
ここは猫好きにとっては、待ち時間中に退屈するということは無い部屋である。
壁際のソファでは、お団子になっている茶トラに黒キジの子猫。
(蜜団子とゴマ団子……)
ああ、そうだ、須崎主任の好み把握したらデザート買ってくるようにしよ。
部屋の隅では、カリカリと水の食事を終えた、やや太めのシルバータビーが紙袋の中にその巨体を器用に詰め込んで、これから一眠りの構えを見せる。
人の副交感神経に対して与えるリラックス効果に、猫種や性差やその他の要素が有意な変化を持っているかの研究……という、それやる意味あるの?と質問された場合に、返答に困る実験。
その為に揃えられた猫の数や種類は実に豊富、そして、人も快適に過ごせるようにと用意された調度類も素晴らしい物ばかりで、猫好きの有理としては、ここに泊まり込みで実験してくれと言われても、残業代や超過勤務手当抜きでも参加したい位の環境。
目を転じれば、様々な猫たちが愛らしく戯れる姿がパノラマのように拡がる。
しばし、蕩けるような顔で、猫ワールドに浸っていた有理だったが、ふと一匹の猫が見あたらない事に気が付いた。
「あれ……あのコは?」
あの憎たらしい三毛ちゃんはどうしてるんだろ、少なくとも私に餌を強請りには来なかったけど。
そう思ってキャットタワーに転じた有理の目が、独り変わらず段の上で、今はのんびりと丸くなるアカネコの姿を認めた。
「なぁに、君は須崎主任が居ない間は寝てるの?」
「僕がどうしました?」
「えっ……あ、しゅ、主任!?」
慌てふためく有理の姿を若干不審そうに見ながら、透は有理の向かいに風呂敷包みと無糖紅茶のペットボトルを置いた。
「いえ、あの三毛ちゃんが珍しく丸くなって大人しく寝ていたので」
「……起きてますよ、しっかり」
ほら、と透が指さした先では、アカネコが香箱座りで、こちらをじーっと見つめる姿があった。
(……この子、本当に主任のことが好きなんじゃないでしょうね)
昔の少女漫画で見かけた、内気な子が物陰からじっと見ている様を彷彿とさせるアカネコの姿ではある。
「相変わらず、狛犬みたいですね」
「変わってますよね、猫ちゃん離れしてるというか」
「猫離れしてると言えば……新条さんはルリちゃんを見た事は無かったですよね?」
「ああ、あの、所内で噂の美濃川研の美人秘書猫ちゃんですか?」
お近付きになる機会が無くて生憎、と笑いながらいう有理に、透が苦笑を返す。
「ちょうど廊下で一緒になって、この部屋まで来てますよ……って、あれ?」
間違いなくこの部屋までは透の後を付いてきていた筈のルリの姿は、既に何処にもなかった。
「居ませんか?」
「……どうも研究室に戻っちゃったみたいですね、何がしたかったんだろ?」
「まぁ、猫ちゃんの行動を人間如きが理解するなんて百年早いんですよ、きっと」
「そんなモノかも知れませんね、それじゃ頂きましょうか」
その言葉と共に解かれた風呂敷包みの中身は、小さいが見るからに高級そうな漆塗りの重箱二つ重ね。
「本格的ですね、これは中身も結構凄いんじゃ無いですか?」
「どうでしょう?」
その言葉と共に開かれた透の弁当は、器に全く引けを取らない和のお弁当であった。
その豪華さに、有理は思わず目を見張り……ついでに透自身が驚いている様も目に入った。
(成程、自分で作って来たわけでは無いのね)
ちょっともやっと来る物を感じながら、有理は量こそ少ないが、ラインナップは豊かな和風弁当の中身に、再度目を向けた。
作品名:ネコマタの居る生活 第一話 作家名:野良