ネコマタの居る生活 第一話
こりゃ、長丁場になりそうだと楽しげに呟きながら、乗り出していた体をメッシュのオフィスチェアに戻した美濃川が天井を見上げて、目を閉ざした。
さて、どう手懐けるか……と思った所で、既に手懐けるのを諦めた猫が居る事を思いだした美濃川は、先達の方に目を向けた。
相変わらず、猫特有の澄ました顔で、モニターの中で展開される人間の悪戦苦闘振りを、冷静な目で観察するルリという名のアメリカンショートヘア。
あの三毛も、このアメショのように、無言の裡に実験対象としての立場を毅然として拒否するのだろうか。
「ルリちゃん、君みたいな気難しい子には、僕ら人間はどう接すれば一番良いんだい?」
モニターの観察を邪魔されたルリが、美濃川の問いかけに、一瞬だけその瑠璃色の瞳を向けて……僅かに鼻を鳴らすと、またモニターに目を戻した。
「……放って置けって事?」
返答代わりだろうか、耳がピコピコ動く。
これがイエスなのかノーなのかは、猫語や猫ジェスチャーに通暁していない、哀れな人間の身としては忖度するしか無い部分ではあるが、彼女に関しては、この耳ぴこぴこは肯定の意志だと思って間違いない。
確かに、猫の好きにさせてやりたい所ではある……が。
「成果物提出のエンドは待ってくれないんだよな」
美濃川も須崎も、雇用主が居て実験をしている以上、ある程度の成果を期間内に上げて、それを提出しないといけない立場である事もまた厳然たる事実であり、その中では時間という物も、また有限なのだ。
ここで、あの猫に固執するか、否か。
美濃川は机の上の携帯端末を取り上げ、ボタンを押そうとした指を止めた。
「……やめた」
何か透に指示しようとした美濃川だったが、若干の逡巡の後に端末を再度机の上に放り出した。
スチールの机とチタン合金が立てた固い音に驚いたのか、ルリが慌てて机から飛び降り、非難するような視線で美濃川を睨み付けた。
「あ……こりゃ悪い」
慌てたときの癖で、頭を引っかき回しながらの美濃川の謝罪だったが、飛び散るフケに辟易した様子で、ルリはその謝罪を受け入れるつもりは無いと態度で示すように、実験機材の影にするりと身を隠してしまった。
「美女の機嫌を損ねちまったな……」
いらだちの犠牲になった形の端末を拾い上げながら、美濃川は席を立った。
時間も丁度正午に近い、自分の昼食などは、お湯を注いで待ってれば出来る物だが、取り敢ず休憩がてら腹を満たす事としようか……。
「ま、今日明日位は考え事に使っても悪いって事は無いだろうさ」
短気は損気って言うし……な。
きーんこーんかーんこーん。
この区画では、猫たちを怯えさせないために低めに設定されたスピーカーから流れ出した、幼少時からなじみ深い音が正午を知らせるのを聞いた透は、丁度遊んでいたキジトラ君がいびきをかいて寝始めたのを見て、静かに立ち上がった。
「新条さん、昼食の時間ですが、食堂行きますか?」
「いえ、私はお弁当なので、ここで頂きますけど……主任は?」
「私も弁当ですよ、ご一緒させて頂いて宜しいですか?」
「はい、勿論」
「ああ、良かった、折角暫くは仕事を一緒にしますので、ちょっとお話しもしたかったんですよ」
それでは、ちょっと失礼。
そう言ってにっこり笑ってから、透は荷物を置いてあるロッカールームに歩いて行った。
……あの人は、女の人の誘い方が上手いのだろうか……はたまた私は単なる同僚で女としてすら見られていないのか、非常に判断に迷う。
その位、この主任の言葉や態度は自然体過ぎて、下心という物が感じられない。
彼をそういう対象として見ていない既婚組などからは、ありゃ仙人が修行のために下界で暮らしてるだけよ、等と、半分本気で語られているのも頷ける位枯れた風情がある。
(折角の機会だし、私としてもお近づきになりたいんだけど……)
今一明るく無さそうな前途に、僅かに溜息を吐きながら、有理も自分の弁当を取りにロッカールームに歩き……。
出そうとしたところで、僅かに引っ掛かる物を感じて足を止めた。
あれ、主任ってたしか、食堂の常連で体の半分はあそこの蕎麦で出来てるって噂だったけど……。
ちなみに弁当派だった有理に知るよしも無い話ではあるが、噂ではない。
単なる昨日までの事実である。
トッピングでワカメ、大根おろし、ナメコを付ける蕎麦は、須崎蕎麦と食堂のおばちゃん達に通称される程で、彼がトッピングで掻揚げやイカ天を取ったり、おにぎりを付けたりするのは、残業が確定している時位の物である。
安定していると言うべきか、面白みに欠けると評すべきか……。
「自炊、始めたのかな」
あの主任だと、寧ろエプロン付けて自炊してる姿の方が似合いそうではある……寧ろ自分より料理が上手いと言われても、あんまり違和感は無いような風情はある。
考えても仕方ない所まで、自分の想像の翼が羽ばたき始めた事を感じ、有理は頭を一振りしてから一度止めた足を再度動かし始めた。
まぁ、その辺の事を聞く機会もあるだろう……暫くは、彼と過ごす時間はたっぷりあるんだから。
ぱたん。
猫を挟まないように注意深くドアが閉ざされる、その終始を、相変わらず静かに見つめ続けていたペリドット色をした瞳が、僅かな疲れを見せて細められた。
「やれやれじゃ……」
低く、口の中だけであったが、確かに人間の言葉で呟き、キャットタワーを占拠した変な三毛猫は僅かな間だけ許された微睡みに身を委ねた。
ロッカールームから、アカネコの作ってくれた弁当を包んだ風呂敷包みを手に、自動販売機の置かれた一角に向かって歩いていた透は、視界の片隅の低い処にブルーグレーの影を認めて、僅かに足を止めた。
「なんだ?」
この研究所は、元々が理想的な研究環境を目指すという理念の元、立地、構造、配色、施設配置まで、細かい配慮の元に作られた物で、所内には開放的な空気と光が溢れている。
そんな場所だけに、見慣れない色はどうしても目立つし、違和感も強い。
なんだろうと思いながら、その通路を覗き込む。
「おや……君は」
逃げようとする訳でもなく、アメショの瑠璃色の目が透を見上げていた。
「ルリちゃんじゃないか、研究の方は良いのかい?」
彼女が鳴かないし、触られるのを嫌がるのはよく弁えている、返答は期待していなかったが、美濃川の研究室以外でこの子の顔を見たのが何となく嬉しくて、透はルリの高さに視線を合わせた。
このルリも、当初は実験の為に連れてこられた猫だったのだが、透も碌に触れ合った記憶が無いままに、何故か美濃川の研究室の方に入り浸るようになり、これまた何となくの内に、実験対象から外れて居たという、不思議な経緯でここに居ついた猫であったりする。
まぁ、美濃川の、「須崎君が毎日美女に囲まれてウハウハなんだから、僕の相手してくれる可愛い子が一人くらい居たって良いんじゃないかい?」という冗談交じりの一言が大きかった部分もあるが。
「何処かにご用かな?それとも、まさか迷った?」
当然と言えば当然だが返事はない、ただ、ルリは僅かに目を細めて小首を傾げた。
作品名:ネコマタの居る生活 第一話 作家名:野良