ネコマタの居る生活 第一話
どちらかというと、これは猫の行動というより、訓練された犬の行動だ……近い物として美濃川が思い浮かべたのは、盲導犬。
主人が行動を起こすまでは、鳴かず、動かず、手の届く範囲に居り、動き出せば、それに随伴し、その行動をサポートする。
見れば見るほど不思議な猫に、美濃川はより興味をそそられた様子で、実験用に登録してある猫の一覧を呼び出した。
「えーと、三毛……三毛の一才位の猫……」
三毛の登録は二匹、一匹は古株の元野良という経歴を持つ三毛だが、極めて珍しいオスという事でここにいる……名前はその物、野良だ。
そしてもう一匹は今日連れてこられた子だった。
「アカネコ?三毛なのに変な名前だな……」
アカネコというと、茶トラの猫を指す方が一般的で、彼らの毛色は実際英語でもレッドキャットと呼ばれる。
猫としては無い名前ではないが、これは三毛に付ける名前ではない。
行動も変わっているが、名前の方も一風変わっている。
(そういやアカネコって名前には、放火魔の意味もあったっけ、誰が付けたか知らないけど、縁起でもないねぇ……)
科学者の癖に、分野外の妙な事に詳しい男である。
兎にも角にも、何か変化が欲しかった所である、美濃川は、所内端末を取り出し、短縮ダイヤルを操作した。
呼び出し音のコールを久しぶりに心地よく聞きながら、美濃川はタイトルだけが打たれて止まっていた報告書に視線を落とした。
「何か起きてくれりゃ儲け物だよ……頼むぜアカネコちゃん、名前に相応しく、燻ってるこの現状に火を起こしてくれよ」
そんな美濃川を、いつ身を起こしたのか、ルリがその底知れないラピスラズリの瞳でじっと見つめていた。
透は滅多に反応しない所内連絡用端末が振動するのを感じ、大柄なシャムの耳の後をくすぐっていた手を胸元に運んだ。
今時のスマートフォンと違い、セキュリティと機能の単純化を計った結果、古式ゆかしい姿に落ち着いた携帯電話型の端末を、細くて器用そうな指がつまみ出す。
大体が、透に掛かってくる所内通話など、総務辺りからの実験機材の納入等の確認である……この辺は雑用係を兼ねる助手としては致し方ない立場ではあった。
それを見ていた有理は今構っていたベンガルを優しく抱き上げると、透に黙礼だけして、会話が聞こえてこない程度の距離を取った。
そんな有理の気遣いに、こちらも目礼だけ返して、透はその視線をディスプレイに落とした。
室長、という表示に、透は若干の驚きを眉の辺りに漂わせた。
(珍しいな)
「はい、須崎です」
『やぁ須崎君、ご苦労様』
美濃川の暢気な言葉に、透は覚えず苦笑を返した。
「この仕事でご苦労様といわれては、みなさんに袋だたきにされそうですね」
『猫好きになら刺されるだろうねぇ』
「だからこその外部へは完全非公開の実験じゃないですか……それでどうしました?」
透も、この室長が男と無駄話するために連絡を寄越したとは思っていない。
美濃川の意志は、すなわち、この巨大な実験室という閉鎖空間における神の手に等しい。
この実験に、何らか加えるべき変数が見えたのかもしれない、そう思うと、停滞を感じていた透としても心が躍る。
『いやね、ちょいとさ、君の右斜め後ろにあるソファの影見てくれない?』
「はい?……はぁ」
発言の意図はともかく、室長が実験中の助手に指示を出したのだ、自分はそれに従う義務がある。
前触れもなく、ヒョイと振り返った透と、ソファの影から、こちらをじーっと視ていた、三毛猫の淡いペリドットの色をした目がばっちり合った。
急に目線を合わせられることを猫は嫌う、身を固くして、相手の出方を窺いながら逃げようとする猫が大半の中、この猫は泰然自若と、透の視線を受け止めてみせた。
堂々とした態度に加え、人間とは比べものにならない綺麗さを湛える宝石の瞳。
透の方が寧ろ気圧される物を感じ、僅かに目を逸らしながら繋ぎっぱなしだった所内端末に低い声を返した。
「この三毛ちゃんの事ですか?」
『そう、変わってるだろ』
「ええ、物凄く」
なんというか、貫禄たっぷりのボス猫の、更に頂点に君臨しているかのような、物凄い存在感がある……。
なにより、今日半日ほど猫と戯れていて、この猫の存在に全く気が付かなかったというのは、どういう事だろうか。
「こんな子、ウチに居ましたっけ?」
『今日来た子みたいだよ、名前はアカネコちゃん』
「……え?」
慌てて振り返ると、その三毛猫……アカネコは、やっぱりじーっと透の方を見つめて、身じろぎ一つしていなかった。
アカネコ……アカネコって。
今朝、自分の家に来た、信じがたい生き物の事は美濃川には話していない……信じて貰えるとも思っていなかったし、下手をすれば、精神的に不安定ということで、実験から外された挙げ句に、鉄格子の完備された病院に放り込まれかねない。
従って、彼がこの件で自分をからかうネタにする可能性は、限りなくゼロに近い。
「アカ……ネコさん?」
みゃー。
僅かに頭を上げて、静かな、落ち着いた鳴き声を上げてから、その綺麗な猫はまたすっと居住まいを正した。
その様が、朝、座布団の上に端然と正座したアカネコの姿と被る。
そして、彼女の耳や尻尾もまた……
(三毛、だったよな)
アカネコさんの耳や尻尾の柄って……どうだったっけ。
『須崎君、須崎君、どうした?』
混乱した透の耳に、所内端末からの美濃川の声が響く。
「……あ、すみません、ちょっと」
ちょっと……何だろう。
僕は、何を考えて居るんだ。
『何だい、その子に魅入られでもしたのかい?』
美濃川のからかうような言い種に、透はふっと気が抜けたような笑みを浮かべた。
魅入られた、か。
確かにそうかも知れない。
「実際、半分魅入られかけましたよ。室長、ついに化け猫でも連れてきたんですか?」
『実験が上手く行くなら、化け猫でもライオンでもご協力願いたい位だよ……ああそうそう、実験で思い出した。ちょっとやって貰いたい事があるんだけど』
「はい」
透の顔も自然に引き締まる。
『ちょっと、その子と集中的に遊んでみてくれない?どう遊ぶかは任せるから』
「そうですね」
NM波は人間と猫の相性次第で、多少の振幅がある事は確認されている。
逆に言うと、これが誤差なのか有意の差があるのか、という部分自体が不明のため、こうして透が毎日猫と戯れる夢のような実験の日々を送れる訳であるが……。
色々なターゲットを試してみるのは、実験上でも、極めて有用である。
『じゃ、後は任せた』
そんな美濃川の言葉を残して切れた端末を閉じて、透は胸ポケットにそれを戻した。
「という訳なんだけど……」
透はソファの影に鎮座するアカネコに、再度顔を向けた。
「僕と遊んでくれる?」
透が取り出したネズミ型の玩具を、妙に冷ややかな目でアカネコは見返した。
「手強い子だな……」
美濃川が注視するモニターの中では、アカネコの目の前で猫じゃらしを振る透と、それを無視するでもなく、かといって遊ぼうとするでもない、変わらぬ姿で佇むアカネコの姿があった。
作品名:ネコマタの居る生活 第一話 作家名:野良