ネコマタの居る生活 第一話
言うことを聞いてくれない体を情けなく思いながら、透は、それでも懸命に走った。
幸か不幸か、アカネコと足を留めながら歩いていたお陰で、研究所までの距離はさほど無い……無いが、山の途中にあるこの研究所への道は、坂になっていた。
思ったほど上がらない足が、坂の途中で躓きそうになる。
上げろもっと、そして早く。
あの人の負担にならないように。
自分なんかがあそこにいても何も出来ない……だったら自分が出来る最善の事は、逃げる事。
情けないと思う心が無いでもなかったが、そういうオスの見栄よりは、まだまだ透の中の理性は強かった。
「とーる殿っ!」
なんだろう……
アカネコさんの声が背後から響く。
「伏せろ!避けてくれとーる殿!」
その声に意識が後に僅かに向いた為か……透の足が坂道を登り切れずに坂の途中に引っ掛かり、転んだ。
伏せる形になった透の上を、火箭が飛び去り……アスファルトにその鏃を深く穿つ。
「おのれ、悪運の強い!」
忌々しげに舌打ちするヘキレキの声を背に聞いて、アカネコは既に走り出していた。
「とーる殿、今参る!」
「させるか……雷火抱影!」
ヘキレキが上空に放った鉄鎖が砕け、その破片がそれぞれ砕けながら雷を発した。
アカネコの前後左右に、雷が断続的に落ちる。
この程度でどうこうなるアカネコではない……が、力ずくで突破するほどの力も、今の彼女には残っていなかった。
電撃の檻に閉じこめられたアカネコが悲痛に叫ぶ。
「とーる殿、走れ!次弾が……」
透も判ってはいる、だが、起きあがって走り出したそのスピードは更に遅く、坂をふらふらと歩いて登る程度の物になっていた。
機巧兵は、すでに第二射を構え、万全の狙いを付け終わっていた。
「撃て、この化け猫の面前でその男の背中を抉れっ!」
サディスティックなヘキレキの声が、機巧兵の弓弦を解き放つ。
火薬だけではない、威力を増すための推進剤の炎を尾のように引いて、致命的な矢が、透の背中に再度迫る。
「にゃーーーーっはっはっはっは」
その緊迫した空気を叩き壊す、能天気極まる高笑いが戦場に響く、それと同時に透の背中に迫っていた火箭が全て突風にでも煽られたかのように、あらぬ方に飛び去っていった。
「な……何だと、馬鹿なっ!」
この辺りに吹く風程度で、あそこまで軌道を変えられるような火箭ではない。
何が起きた……まさか、この雷電の檻に閉じこめられたアカネコが?
ヘキレキが混乱しきった顔でアカネコに視線を向ける……それを悠然と無視して、アカネコは嘯いた。
「確かにお主の言う通りじゃ……馬鹿がきおったわ」
意味が判らず、再度透の方に視線を戻したヘキレキと、苦笑と安堵に唇の端を歪めたアカネコ。
あやつめ……良い時に来おる。
「天丼が呼ぶ、血が呼ぶ、猫が呼ぶ、ネズミをシメろと轟き叫ぶ」
火箭を弾き飛ばした風が形を取ったように、黒い小柄なシルエットが頭の悪い台詞と共に、透を守るように前に立つ。
「誰だ、貴様!」
「いいタイミングでそれを聞いてくれて感謝するじぇ悪党め……猫呼んで流離いのヒロイン、喧嘩上等の風雲ミーオ丸とはあちきの事でぇ、覚えときゃーがれネズミ女郎」
月明かりに照らされて、茶色の長い髪をなびかせ、挑発的な光を湛えた紫色をした大きな瞳の美少女が立っていた。
その頭からはお馴染みの黒猫の耳に、二股の黒尻尾。
「にゃー、ししょー、苦戦してるみてーじゃにゃーか、今ミーオちゃんが助けてやっからにゃー、後で礼を忘れんにゃよー」
ミーオがぶんぶんと雷火の檻に閉じこめられたアカネコに手を振るのを見て、ヘキレキが微妙な表情を向けた。
「……お前も弟子を取るようになったのか?」
「かなり不本意な成り行きでのう」
「そうか……五十年だな」
敵味方とは言え、長い付き合いでもある……微妙な間と空気が二人の間を流れる。
「しかし何故だ、たかが人にネコマタが二人も護衛に付くなど、聞いたことも無いぞ」
(そうじゃろうな、我も聞いた事は無いわ)
盛大な誤解の産物だが、アカネコにしてみれば、ヘキレキの誤解を敢えて解いてやる義理はない。
「ふ、色々計算が狂ったようじゃな……そろそろ、その細い尻尾を巻いて逃げたらどうじゃ?」
冷笑混じりのアカネコの声に、ヘキレキは殺気だった視線を向けた。
「ええい、この程度で退けるか、機巧兵、撃て、有るだけの矢を撃ち放て」
連発式のクロスボウのような装填機構を備えているらしい、直ぐに次の火箭がチャージされる。
その様を見ていたヘキレキは、背中を伝う汗を隠しながら、手の中に仕込んでおいた、最後の切り札とも言うべき発信器のスイッチに手を掛けた。
火箭機巧兵は確かに彼らの切り札だが、あくまで須崎透暗殺の為の物で、ネコマタ族のエージェントを正面から相手取って勝ちを拾えるとはとても思えない。
やはり、ネコマタの相手となると、切り札を切るしかない。
よもや……アレまで引っ張り出す羽目になるとは。
焦るヘキレキの手の中で、そのスイッチは、静かに押し込まれた。
機巧兵が次の矢を装填する様を腕組みしたまま見ていたミーオが、前を向いたまま、背中合せに立つ形になった透に声を掛けた。
「そこのにーちゃん」
「……僕?」
「おう、とーるにいちゃんにゃろ?」
「え、ええ」
「そら良かった、ところで大事な質問にゃんだけどさ」
「はい」
この差し迫った状況を打開する為に必要な事だろうか……透が続くミーオの言葉を聞き逃さないように耳をそばだてる。
その二人を包囲するように立つ機巧兵の手が上がる。
「今晩の晩飯はにゃんの予定にゃ?」
「……晩飯?」
……この差し迫った状況下で、今晩の我が家の献立が、どういう意味を持つんだろう。
そう、至極尤もな疑問を感じた透であったが、ミーオの「はよ」と促す声の勢いに負けて、あまり人には言いたくない献立を口にした。
「えーと、カップラーメンかカップ焼きそば」
「……まじけ?」
「マジです」
嫌いじゃにゃーけどさ……そらにゃーよ。
心底げんなりしきった声が後から響いたが、ややあって、ミーオは再度声を潜めて透に語りかけてきた。
「にゃー、ひょろい兄ちゃんよ、物は相談にゃけど」
「にゃんで……何でしょう?」
この変な猫耳少女のペースに完全に巻き込まれてしまった透が、素直に聞き返す。
「アカネコ師匠にナイショでカツ丼を五人前くらいあちきに奢る気にゃーか?」
「……君に?」
機巧兵の手から、照準が付けられた火箭が一斉に飛び出す。
四方八方から迫る火箭にも、ミーオの悠揚迫らぬ態度は変わらない。
「おう……とーぜんタダとはいわねー」
ミーオが掲げた右手を中心に風が渦を巻く。
「今交渉中だから黙ってろガラクタ……風塵掌、暴牙!」
無造作に、まるでハエでも追うかのように振られた右手から放たれた暴風が、飛来した火箭を逆に巻き込んで機巧兵に襲いかかる。
立っていられないほどの風圧をまともに受けた機巧兵が、軽くもない体を、木の葉のように散らされた。
「まさか、ネコマタに風使いなど居なかった筈」
呆然とするヘキレキに、雷の檻の中から、アカネコが面白がっているような声を掛けた。
作品名:ネコマタの居る生活 第一話 作家名:野良