ネコマタの居る生活 第一話
「そりゃ凄いです……でも、どうしてお茶程度の事で、守ってくれたんです?」
「お茶程度、とはあの時には判らぬでな。もしあの中身が有害な物であったりしたら如何する?」
「確かに……まぁ例えお茶でも、着替えも無かったし、染みになっても哀しいので、助かりましたよ」
「我の正体の引き替えにするには、ちと安い代償じゃったな」
そうアカネコは低く笑った。
どこが違うというのでは無いが、その瞳が明確な知性の光を帯びる。
「せめて偽名を使うべきでしたね」
透の言葉に、アカネコがどこか寂しそうに目を伏せた。
「偽名か……ヒトにとって、名とは左様に軽い物になってしまったのじゃな」
「え?」
問い返す透に、アカネコはそれ以上は何も答えようとせず、登り始めた月を見上げた。
「春宵一刻値千金(しゅんしょういっこく、あたいせんきん)じゃな」
「花有清香月有陰(はなにせいこうあり、つきにかげあり)……でしたっけ?」
記憶を辿るような透の顔を、アカネコは面白そうに見上げた。
「ふふん、科学者ながら少しは風雅な嗜みも有るようじゃな」
「残念ながら、風流とは縁遠い受験勉強の賜物ですがね」
透の言葉に、彼女は面白そうにくっくと暫く笑いながら、詩の風景そのままに霞んだ月を見上げていた。
「何、昔は昔で、詩は教養であり、かつ仕事の道具でもあったのじゃ、お主らが覚えたそれと、動機の点では大して差はありはせぬよ」
そう言いながら、彼女は存外優しい目で透を見上げた。
「この風景を見て左様な言葉がふっと出る……知識と経験が結実したのじゃ。これでお主が覚えたそれは、お主の詩になった。良い学習をして参ったのだのう」
ふ、と胸を突かれたような顔で、透の足が止まった。
「ん、とーる殿、如何した?」
「いえ……」
そこで、透は軽く頭を振った。
「点数と入った学校以外で、学んだ事をそう評価して貰ったのは……思えば初めてだったなぁ……と」
そう呟いた透の表情を、暫くアカネコはじっと見てから、低く「左様か」とだけ言って目を閉じた。
「宴を離れ、開き始めの花に満たされた庭に降り立ち、月もその花の香りに霞むような光の中をそぞろ歩いていたら、いつの間にか宴席の喧噪も今は遠い」
「歌管楼台声細細(かかんのろうだいこえさいさい)は、そう訳すんですか?」
僕が教わったのとはちょっと違うな。
「さてな、大きく外しては居らぬだろうが、我には左様な光景が浮かんだというだけじゃ……言葉とは人の心にそれぞれの波を起こすための呼び水よ」
「そういう物ですか」
「左様さ、如何なる詩も、絵も、曲も受け手の心の中に響き合う物が無ければ、言葉、線と色、音でしかない」
春の大気に溶けるように、アカネコの穏やかで静かな言葉が流れ出す。
どこか妙なる楽を聞くように、透はうっとりとその言葉に耳を傾けていた。
「故に、字句の解釈の正誤はあれど、個々の心に起きた波に正誤は無い、無いが、浮かぶ情景の美しさ、芳醇さは即ち受け手の心の美しさと豊かさよ。願わくは、良い受け手であり、発信者で有りたいものよ……な」
「そう……ですね」
この春の宵は、確かに価千金なのかもしれない。
人と語り合う言葉と声音に酔いながら、月を見上げるというのは、なんと心地よいんだろう。
「そうそう、この詩ですが続きが有りますよね……」
「ふむ、鞦韆院落夜沈沈(しゅうせんいんらく、よるしんしん)じゃな」
「僕は、昼には遊ぶ声に満ちていた中庭のブランコも今は遊ぶ者も無く、夜は静かにふけていく、なんて教わったんですけど、アカネコさんは、どう読まれるんです?」
それで間違っては居らぬがな……そう笑みを含んだ呟きの後に、アカネコは言葉を次いだ。
「当時のブランコはのう、女性の遊び道具じゃ。故に、このブランコとは作者の蘇軾と同伴する女性が居った暗喩と解するのも、少々の飛躍を伴えばあながち的はずれではあるまい」
「ああ、何となく唐突な感じが薄れました」
「宴の席から、春の花が咲き出した初々しい息吹に包まれた中庭に愛する人を連れ出し、朧に霞む月の下で愛を語らっていたら、知らず知らずの内に夜も深更を迎えてしまった……楽しい時間、愛する人と過ごす時間、そういう時は余りに早く過ぎ去ってしまう……例え千金の価を払ってでもこの人と過ごす春の宵を、もう少し長く味わいたい……些か想像過剰なれど、かような読み方もできようさ」
そこで、アカネコは月の光を宿した緑の瞳で透を見上げた。
「夢中で過ごす時間は楽しい物じゃ……なれど、ふと我に返ったとき、己はそこに留まって居ったのに、共にその時間を過ごしていた筈の人すら、別の場所に行ってしまっている。そんな思いをする事もあるが……な」
時の流れは平等に見えてそうではない。
自分だけは夢中だったのに、気が付いたら友達は皆、全く別の物に夢中になってしまっていた。
まるで、楽しい時の果てに世界から置いてけぼりにされた浦島太郎のように。
そんな思いは透にも覚えがある……けど。
「でも、それでも、楽しいからこそ短く感じるような時間を重ねていけるのが幸せなんじゃないでしょうか」
今、こうして、この不思議なネコマタと語り合えるような……そんな時間を。
「……そうじゃな」
アカネコが静かにそう呟き、再度目を月に転じようとした、その瞳が鋭い光を帯びた。
これは……この気配は。
「伏せよっ、とーる殿!」
「留守け……」
お腹をすかせた黒の子猫が、人の気配を一切感じない一軒家の前に立って、情け無さそうに呟いた。
表札の須崎という姓を確認して、ミーオはうなだれた。
「はらへったにゃー」
どうせ人界に出てきたのだ、ちょいと健康に悪いような物でディナーと洒落込みたいのがにゃん情という物ではにゃーか。
労働に相応しい対価を!
立て、にゃん国の労働猫、悪しきぶるじょわじーを打倒するのにゃ。
その対価とやらは、彼女を遣わした長老に出して貰うべき筋合いの話であって、須崎君が奢らないといけない話ではないんだが、胃袋と思考が直結してしまったミーオに、そんな道理は通らない。
「あーもー、人間ちゅーやつらは働き過ぎにゃ」
日が落ちたら家に居ろよにゃー……ったく。
疲れ果てたような顔で、ミーオは玄関の隅に座り込んで、しばし考え込んだ。
「あー、そうだ、もしかしたら同姓ってだけで家が違うかもしれねーしにゃ」
期待薄だけど、一応確認しとくかにゃ……そう言いながらミーオはよっこらしょと身を起こし、家の周囲を嗅いで回り出した。
「やっぱし間違いなく須崎さん家か」
ややあって、狙っていた長老の匂いを感じ取ったミーオはしっぽをうなだれさせて玄関に戻ろうとした。
待つのは嫌いだが、腹をこれ以上減らしたくもないし、玄関先で丸くなってるか。
しおしおと歩いていたミーオの尻尾が、嫌な気配を感じ取ってピンと立てられる。
「うげっ!」
この、かぎ取るまでもない圧倒的な存在感は間違いない。
「ししょーじゃにゃーかよ……」
恐れていた事態が現実の物となってしまった。
作品名:ネコマタの居る生活 第一話 作家名:野良