ネコマタの居る生活 第一話
「博士は恥ずかしがる必要はないでしょう、何のために分業制の社会を構築してるんです?」
「責任者って奴は、こういう時は、プロジェクト全体の責任を負う物なんだよ」
ルリの方も人類の考え方には、時折は面白いと思う箇所が有るらしい、個人の時代と言いながら、中々そうは行かない物なのですね、そう呟いて、矛を収めるように口の端に微かな笑みを浮かべた。
「まぁ、仕方有りませんね、暫くは私たちがお守りする中で、犯人のあぶり出しをするしか無いです」
「お手数をお掛けします」
「いえいえ、結局は、人界における猫の地位向上に役立つかと思えばこその介入です、そちらが気にされる話ではありません」
そこで、ルリは僅かに眉を顰めて、喉の辺りを軽く手で押えた。
「少しお喋りが過ぎましたね、何か飲む物を用意して頂けませんか?」
私が給湯室や自動販売機に赴くわけにも参りませんので……と視線を向けてきたルリに、美濃川はご尤もと呟きながら立ち上がった。
「可愛い少女にお茶を奢れる身分になれようとは思ってなかったよ、猫ちゃんならミルクが良いのかな?」
「紅茶が良いです、無糖か微糖程度でお願いします」
「……了解、でもカフェインとか良いの?」
「ネコマタになった時点で、猫が持つ食物への弱点は全て失われます」
タマネギだろうが、イカだろうが何でも来いです……そう言いながら、僅かに胸を張る様は、中々に可愛らしい物であった。
「それじゃ、紙コップで申し訳ないけど用意しよう」
「奢って貰う側で、贅沢は申しませんよ」
ふふっと穏やかに笑いながら、軽く手を振って美濃川を見送る様は、最前までの毒舌ぶりからは想像が出来ないほど可愛らしい姿であった。
自販機に向かう美濃川と、帰宅しようとするスタッフがすれ違う度に、僅かな物だが驚きの視線が彼に向けられる。
(やれやれ、珍獣扱いだな……)
尤も、この二ヶ月というもの、殆ど研究室引き籠もり状態だったのだから、無理からぬ話ではある。
帰宅する人も既にまばらだし、残業組は夕食の為に食堂に集まっている時間である。
広く取られた窓から差し込む紅色が、一人廊下を歩く美濃川の顔を照らし出す。
「春の落日か……綺麗なもんだ」
しばしの間、美濃川は足を留めて、淡く霞む暮れゆく空を見続けていた。
霞がかった山の稜線がぼんやりと、曖昧な色で空に溶けていく。
黄昏時か。
誰ぞ彼と行き交う人たちが問いかけをしあった時間。
貴方はだれ?
人間?
それとも……。
人とそうでない生き物達との狭間が曖昧に溶ける、そんな時間。
人は一時、人口の光で闇を駆逐したかに見えたが、人の力が衰えを見せ始めた昨今、夜の時間は人の手から去ろうとしている。
結局、人は闇も夜も自分たちの良いように手懐ける事は出来なかった、ただ、昼のように飾り立て、自分たちの生き方の前にねじ伏せようと多大な力を使い……そして敗北しかかっている。
そんな人間達の姿を、夜と闇に属する彼女たちは、どういう目で見ていたのだろう。
あざ笑ったのだろうか、憫笑を浮かべて静かに見ていたのだろうか、忌々しく思っていたのだろうか。
(そういうのは、極めて人間的な考えだと思って下さい)
ルリちゃんか。
当然だが、彼女たちはまだ美濃川達に手の内の半分も明かしては居ない。
だが、その中でも、ルリの提案をほぼ丸呑みする形で乗ったのは、アカネコと透が一瞬だが発した強力なNM波を再現したい、その一念があればこそだし、あのシャープな頭脳を持つルリの事、それは当然見越しているだろう。
君は、何をしにここに潜り込んだんだ……。
何を望んで居るんだ。
無意識のうちに動かしていた足が、美濃川を自販機の前に立たせた。
この自販機は、全部所員に配られるICカードを翳せば、給料からの自動引き落としの形で、飲料を購入できる仕組みになっている。
紅茶、砂糖、ミルクなし、ホット、手慣れた様子でポンポンと操作し、カードを翳すと、軽快な決済音が辺りに鳴り響く。
「現代の化け猫は紅茶を舐めるのか……」
行燈の油は遠くなりにけり。
「そういや、当時の行燈は大方が100パーセント天然菜種オイルか……」
高級志向は変わらない……のかね。
馬鹿な事を呟きながら、美濃川の方はペットボトル入りの炭酸飲料を購入した。
この男これが好きという銘柄に依存する物ではなく、要は炭酸が好きなのである。
これを飲むと、微細な炭酸の泡が弾ける度に、何か知恵が湧くような錯覚が得られる。
考え事が多く、煮詰まる事の多い美濃川にしてみると、それは錯覚でも良いのである。
こういう物は、火の付いていない煙草を咥えるのと同様、自分を騙すためのスイッチのような物であり、実際の薬効などという無粋な物はお呼びではない。
出てきたボトルを握ると、彼は早速キャップを捻って、若干強めの炭酸を、ぐっと口に含んだ。
炭酸の泡が口内で爆ぜる、だが、今回はこの爆発も、彼の頭脳に火を入れる役を果たしてはくれないようだ。
「お姫様を待たせる物じゃないよな……」
もう一口飲もうかとも思ったが、多分駄目だろう。
考えるべき事は余りにも多い。
だが、考える為の材料も、彼の側だけが持っている強みも、そして何より確実視出来る味方が余りに少ない。
「アレが起動するような事態でも起きれば面白いんだけど……無いだろうなぁ」
4
透はケージを手に春の宵闇の中をゆっくりと歩いていた。
「いや、良い夜ですね」
みゃぁ。
思いの外柔らかい響きを伴って、ケージの中からアカネコの鳴き声が聞こえる。
「それでは主任、お疲れ様でした」
スピードを落としながら、細身のクロモリフレームのクロスバイクに乗った有理が透に並ぶ。
「新条さんもお疲れ様でした」
「いえ、それじゃ主任、アカネコちゃんと仲良くしてくださいねー」
軽く手を上げた透に、有理も軽く手を上げてから、自転車のスピードを上げた。
あっという間に小さくなる有理の背中と、赤いランプを見送っていた透が、また歩き出した。
「あれで、片道20kmを走って帰るんですよ、元気ですよねぇ」
にゃー。
その声に足を止めて、透はケージの中を覗き込んだ。
中からは、静かに彼を見返す、綺麗な緑の瞳。
「アカネコさん……ですよね?」
透にはその確証があった。
というより、こんな凄い同名の猫、一日に二匹も会いたくない……。
しばし、しらばっくれるように顔を洗ったりヒゲを撫でていたアカネコだったが、透が視線を外そうとしないのを見て、諦めたように溜息を吐いた。
「やむを得ぬ仕儀ではあったが、やはり見破られたか……」
この辺りは人家も少なく、研究員達も車や自転車での通勤や泊まり込み組が多いため、この辺りをそぞろ歩いているのは、今や透だけ。
山の途中にあるこの研究所は、人家が見える所まで出るには、後10分ほどは歩く必要がある。
ケージに向かって話しかける変な青年を見ているのは、恐らく、登りだした朧な月だけであったろう。
「流石に、あの猫離れした反応を見てしまっては疑いますよ……凄いスピードだったそうですね」
「護衛と申したであろう、我等にとって、あの程度は出来て当然じゃ」
作品名:ネコマタの居る生活 第一話 作家名:野良