ネコマタの居る生活 第一話
「あー、腹へったにゃー、須崎ちゅー兄ちゃんの家で、飯ぐらい食わせて貰えるんかにゃ」
この燃費の悪さを、どうやら長老達は把握していなかったようである……
「さて、ラストスパートにゃ、夕飯に間に合うように走るぜー、おー」
透の家で夕食にありつくプランを勝手に立てた黒の子猫が、長い影を引いて再び走り出す。
その背中を追いかけるように、日が沈み始めていた。
先にルリが入ったのを確認して、美濃川は研究室のドアを念入りに閉ざした。
「あれで良かったの?」
「ええ、結構ですよ」
小さい少女の姿を取ったルリが、器用に椅子に腰掛けると、物憂げに暗い天井を見上げる。
猫もよく、人間には見えない何かを見るように、天井の隅を見上げたりするが、彼女に聞けば何が見えているか、猫の見ている世界を教えて貰えるんだろうか……。
「ネコマタ族への機密漏洩に関しては、私はお咎め無しですか?」
尋ねようとした美濃川より先に、ルリが先に口を開いた。
「猫を裁く法は、人間界では整備してないんでね」
「法律とは規範の最下限値なり……法律を己の行動の基準に置くのは最低の人間と心得るべし」
自戒とも皮肉とも付かない言葉を、天井を見上げたままルリは呟いた。
「耳が痛い言葉だね、寡聞にして知らないけど、その手厳しい言葉は誰の格言だい?」
「私が知らないだけかもしれませんが、私の言葉ですよ、法律で裁かれるまで自律も自制も出来ない存在など家畜みたいな物です」
同意できる部分は多いが、素直に首を縦に振るには少々厳し過ぎる感があるルリの言葉に、美濃川は苦笑混じりに肩を竦めた。
「大衆は豚か……ゆくゆくはネコマタさんが人類を支配するかね?」
美濃川の言葉に、ルリは天井に向けていた視線をゆっくりと彼のほうに向けた。
「私たちネコマタは、基本的にはゆるやかな共存しか望みませんよ、愚かな相手、劣った相手は支配する、導く、見下す、滅ぼす等というのは極めて人間的な、押しつけがましい考えだと思って下さい、私たちは縄張り内に自分が必要な物が揃っていれば、それで満足なんです」
「成程ね」
彼女たちがこれまで広く人間の知るところでは無かった理由の一端が見えた気がして、美濃川の目が、好奇心に光った。
人ならざる知性との邂逅というのは、人類にとっては、それ自体が極めて貴重な体験である。
ただ、どうやら古代から人間を見てきたネコマタ達の方が、既に人類との付き合い方がそれなりに手慣れているらしいのが、あしらわれる側からすると、難点と言えば難点だが。
「アカネコちゃんも、君の仲間だったんだね」
「はい、博士に関しては、ここに引き籠もっている上に、私もいましたので、当面は安全でした。しかし、流石に私一人では、博士の護衛と研究の観察で手一杯で須崎さんにまでは手が回りませんので、彼の身の安全のために助力を要請しました……よもや彼女が来るとは思っていませんでしたが」
「……よもやって?」
説明が欲しそうな美濃川の顔に気が付いたルリが、余計な言葉を悔いるような顔を一瞬見せたが、微かに鼻を鳴らして口を開いた。
「護衛と言うには少々強すぎるんですよ、あの方は」
あの方……ね。
その言葉に、純粋な敬意が込められているのを感じて、彼は少し興味を抱いた。
「護衛に拳銃じゃなくてバズーカ持ってくるような物?」
会話の呼び水程度の物ではあるが、我ながら頭の悪い例えだな。
そんな事を思いながらルリの方を見た美濃川は、案外真面目に考え込む彼女の顔を見ることになった。
「そうですね……護衛に航空支援の完備した機甲師団が付く位、だと思って下さっても結構です」
昔の彼女なら……そう付け足した時、ルリの声には隠しようのない無念さが籠もっていた。
「……冗談、だよね」
「残念ながら、現状では確かに冗談です。そうですね、自衛隊最精鋭のフル装備歩兵一個中隊くらいが妥当かもしれません」
それでも過剰広告が過ぎると思った美濃川だが、どうやらルリの表情を見る限りでは冗談ではないらしい。
いやはや化け猫退治というのも大変だったんだな……。
遠く鍋島藩の苦労に思いを馳せた美濃川の意識は、ルリの声によって直ぐに現実に引き戻された。
「博士には自分たちを狙う存在に関しては、本当に心当たりは無いんですね?」
「無いなぁ。まぁ、この研究と、実用化の目処を考えると、狙われてもおかしくないとは思うけどさ……逆に聞きたいんだけど、本当に僕らは狙われてるのかい?」
「確証はありません……が、二週間前から、幾つかこの研究に関してのアクセスで、身元を偽装した物が散見されたのは事実ですし、何度かこの研究所の周囲で、研究員ではない存在が所員の行き帰りをチェックする姿が見られました」
「まぁ、研究所の出入りは、割とヘッドハンティング屋とか特ダネ欲しさのブン屋とかがチョロチョロして、初心な子を釣りに掛かってるよ……大概がガードにつまみ出されてる筈だけど」
「ええ、ですが……」
「不正アクセスの方か……ほぼイントラネット状態のここだと外部からのハッキングは考え辛い、とすると」
「ここの存在を知り、アクセス権限も持っているけど、自分がデータを持ち出したとは知られたくない人による偽装と考えるのが自然です」
持ち出されたデータは流出目的だと思う方が自然であり、それが流れた先によっては、美濃川や須崎の身に危険が迫るというのは、あながち飛躍した考えではない。
「その小細工は、データへのアクセス行為に後ろ暗い物があるってゲロってるような物だね……でも、その人って割り出せそうも無いんだよね?」
「無理でしたね、気に食わない事に、ここの存在と研究内容を知る八人全員が、所内共有端末からアクセス出来る状況下でやられています」
「その後は大丈夫なの?」
「申し訳ないとは思いましたが、私の方で美濃川さんの権限でログインして、勝手に身元確認のセキュリティやその他諸々を追加しました、その後の漏洩は無いと思っていただいて結構です」
妖怪にIT技術でまで負けてしまったら、人類はどこに行けば良いんだろう……。
「資料は会議後に回収、完全断裁の上焼却されるから、そっちからの流出は無いにしても、お偉いさんから口頭で漏れる分は防ぎようが無い……よね」
ルリが疲れたような目で肩を竦める。
「当然ですね、それを防ぎたければ、個々に得られる情報の差を付けるなど、細やかな情報管理をする必要がありますが、当然それは博士や須崎さんのするべき話ではありませんね」
「一応、ここの研究所で、情報管理やってる部門には協力して貰ってるんだけどね」
協力と言っても、情報管理部門に全ての情報を開示し、それの保護を頼むというのは、漏洩リスクを抑えたい上層部の意向でストップが掛けられてしまい、結局は開示できる情報が極めて限定的な状況下での協力依頼となってしまっており、この件で彼らを責めるのは酷とも言える。
「それが機能していれば、私たち猫の手を借りるような事態になっていないでしょう」
ルリの青い瞳が色に相応しい温度まで下がったような錯覚を覚えて、美濃川は僅かに背筋を震わせた。
「いや、全くお恥ずかしい」
作品名:ネコマタの居る生活 第一話 作家名:野良