ネコマタの居る生活 第一話
「猫様……か」
そう呟いた透が、視線をキャットタワーの方に向ける。
相変わらずの香箱座りをしたままのアカネコが、こちらを眺めていた。
「貴女には、その風格が確かにありますよね、アカネコさん」
ある確信を込めて透はそう口にして、彼女の方をじっと見つめた。
この距離を隔てていても、彼女には透の声が届いて居るのだろう……だが、彼女は特に反応を返す風もなく、静かに透を見返すだけであった。
その後は美濃川からの指示もトラブルもなく、透と有理は猫に囲まれながら、微かに響く終業のチャイムをのんびりと聞いていた。
フレックスタイムで働く透だが、幸い、今日は定時に間に合ったので、本日の仕事はこれで終わり。
「新条さん、本日はお疲れ様でした」
「主任もお疲れ様でした……ところでこの猫ちゃん達はこのまま?」
有理が気になっていたのが、ここにいる十三匹の猫の寝床が、ここに用意されていた事。
「ええ、幸い室長がここに住み着いてますので、就寝前には様子を見て回ってから、水の用意もしてくれてますよ」
この研究所、長期に渡る泊まり込みの実験に従事する人員も結構な人数が居るため、敷地内にはちょっとしたホテルのような形で、所員を長期間宿泊させる事が出来る施設が設けられているし、食堂では朝夕の食事もちゃんと提供される。
所内設備といい、実に奢った研究所であるが、その結果が莫大な利益を生み出す集団でもあるため、彼らに待遇への不満から逃げられるような事が無いようにする意味でも必要な投資であると言える。
実際、今までの日本企業では、この辺りを軽視していた為に、どれだけの人材を国外に流出させてしまい、その結果として、どれだけの金銭的な損失を被ったか知れた物ではない……。
この研究所などは、ようやく知的財産という物と、それを産み出す人材を囲い込む事の重要さが判ってきた結果の産物と言えよう。
「それは良かったです、結構子猫が居ますから、心配してたんですよ」
頭部などに付けたセンサーを外しながら、有理が安堵したように、声を柔らかくする。
なお、服の下に付けてあるセンサーは、流石にロッカールームで外して来て、返却する事になっている。
「ご心配なく、猫様もストレス無く実験に協力頂けるよう、重要人物扱いさせて頂いてます」
まじめくさった透の言い種に、有理はたまらず吹き出した。
「でも、ここってソファベッドもあるし、猫ちゃん達と一緒に泊まってもいいかなーって思った位ですけどね」
「はは、僕は一週間位やらされましたよ、就寝時の猫との関わりではリラックス出来るか、ってテーマで」
「結果はどうだったんです?」
遊具を片付けながらの有理の言葉に、透は肩を竦めた。
「猫は基本が夜行性で、人間は昼行性だと再認識させられただけでしたよ」
「あ……あはは」
「尤も、猫でも昼行性に近い行動を示すようになってた子も居たりしましたね、人間にずーっと飼われていた子は、その傾向が顕著でした」
「それは聞きますね……人間だって夜行性になっちゃう人も居ますし、そんなモノかも知れませんね」
「全くですね、結局、メインの活動時間をどっちに置くかってだけの話ですから」
「猫は夜闇に潜む狩人で有って欲しいですけど」
「夜のない現代日本ではねぇ……」
「でも、最近は夜が前より暗くなってきましたけどね」
行き帰りに恐いと思う場所が結構増えてきました……自転車通勤の有理が、そう声のトーンを若干暗くした。
「電力が厳しくなって、随分と値上がりしましたからね……それを勘案すると、終日働き続けられるような景気のいい会社も減ってるんでしょう」
音の静かな掃除機を掛けている透の足許で、猫がコードにじゃれつく。
掃除機の爆音に怯える猫というのも、昔の光景になってしまったのだろうか。
「夜が暗いのは正しいとは思うんですけどね……良いのか悪いのか」
「どっちかというと、仕方ない、ですかね」
「そうですね」
若干暗めの話題になってしまったことから、二人の口数が少なくなる。
「やーやー、お二人さん、一日中猫塗れになる過酷な仕事お疲れ様」
そんな雰囲気を救ってくれたのは、珍しく実験室の方に現れた美濃川の能天気な声であった。
「おや、室長、こちらにお越しとは」
いつもだったら、実験結果の確認と報告を兼ねて、透の方が美濃川の方に出向くのだが、こうして彼が実験室の方に足を運ぶのは本当に稀な事である。
というのも美濃川、生物としてのレベルで嫌われているのか、猫たちのウケがおしなべて誠に宜しくない。
前に、実験の方に参加しようとして、猫たちに総スカンを食らった程である。
「何、今日はちょっと須崎君に頼みがあってね、こうしてお願いする側が足を運んだって訳さ」
人として当然だろ、と言ってニヤリと笑う室長に、透は苦笑を返した。
「急な残業ですか?」
無い話ではない、夜行性の子が活発な時を見計らって行う実験もあるし、帰宅間際に良い結果が出たから、実験を延長する事だってある。
「いやいや、そうじゃなくてだね」
そう言いながら、美濃川が親指でとある一点を示す。
「ケージ?」
有理と透の声が偶然にも綺麗にハモる。
「透君、今日から暫くアカネコちゃんと生活して欲しい」
「……はい?」
にゃ?
今度は猫と人間の声が妙に綺麗にハモった。
「一緒に出勤して、一緒に帰る、特に行動プログラムは定めず、君やアカネコちゃんが自由に振る舞えばいい。ただ、実験の一環だから須崎君にはセンサーやロガーを付けて生活して貰う事になっちゃうけど」
急な話に、説明を求めるような顔を向ける透と有理を無視して、美濃川は言葉を継いだ。
「家での餌代やなんかは、給料で補填するし、社外実験協力って事で、ちゃんと業務に加算する、幸い君の家は一軒家だ……頼めないかな?」
「それは……まぁ良いんですが」
透には何となく判っていた、自分はこういう面白そうな話を拒否できる人間ではないと。
「ちょっと研究も停滞気味だ、人や猫を様々変えてみたが、これという変化は出ない……まぁ、それなら環境の方を変えてみようって気になったのさ」
美濃川の発想は透にも理解できるし、その際は、この実験の持つ本当の意味を知っている透が、テスターに選任されるのは自然な事。
「それで僕ですか」
「そうだね、というか、新条さんの方は」
「私のアパート、ペット不可ですので……」
申し訳ありません、と有理が頭を下げるのを、透は手を振って制した。
「本来、実験はこの中でのみ行う事が原則になってます、原則から外れた話を承諾できないからって、引け目を感じる必要なんて無いですよ……にしても」
そこで、透はキャットタワーの上に君臨する三毛猫に目を転じた。
「もう一方の当事者の意志はどうなんでしょう。彼女は自分が納得しなければ、多分テコでも動きませんよ」
透の言葉通り、と言いたげな顔でアカネコは人間の方に目を向けている。
そのアカネコの前に、ブルーグレーの姿が、身軽に立った。
「あれ……ルリちゃん?」
アカネコも、珍しく怪訝そうに、目の前の猫に何やら話しかけた。
にゃ?
にゃん。
「まさか、ルリちゃんに説得おねがいしました?」
作品名:ネコマタの居る生活 第一話 作家名:野良