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ネコマタの居る生活 第一話

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 流石に緑茶に入れませんが、そう言いながら、有理は動くのを苦にしない人特有の軽やかな足取りで給湯室に向かった。
(付き合いやすい人で助かりますね)
 ぷゆー。
 膝の上によじ登って来たマンチカンの子猫の喉をくすぐりながら、透はぼーっと正面の白い壁を見つめた。
 そこには、絶妙な配色の静かすぎる青い空と海、その中を曲がりながら通る一本の道と、その沿道に植えられた透き通るように美しい緑の木の間を、一頭の狼が歩いていく様を描いた美しい絵が掛けられていた。
「いい絵ですよね」
 ふみゅ。
 同意してくれているのか、寝言なのか、マンチカンの子猫はいたくここが気に入ったらしく、もぞもぞと身を丸くして透の膝の上で寝息を立てだした。
「参ったね……動けない」
 口ではそう言いながらも、猫好きにしてみれば、これは至福の時間である。
 自然に緩む頬を持て余したように、透は再度、視線を絵の方に向けた。
 それにしても、不思議な絵だ。
 綺麗だけど、いや、綺麗すぎる故にどこかに不安を感じる程の世界の拡がりを感じる。
 そして、その世界の中に置かれた白狼が淡々と歩みを進める様は、その世界の広さに溶けてしまいそうな程に小さくも見える。
「それ、つづく道っていうタイトルなんですよ」
 給湯室から出てきながら、透の視線に気が付いた有理が、声を掛けて寄越す。
「絵の道で食べていこう、って決めた時にこの画家さんが描いた作品だそうです……無限に拡がる前途への不安も感じますが、その中にいる小さな自分には迷いは無い……いい絵ですよね」
 ……ああ、そういう絵なんだ。
 不安を覚えたのは、僕の心の投影だったんだろうか。
「詳しいですね、この絵って、新条さんが選んだんですか?」
「いいえぇ、とんでもない」
 そんな権限有るわけ無いじゃないですか、と彼女はお盆を気にしながら、小さく肩を竦めた。
「本当に偶然ですよ。まだ若いアーティストさんですから、まだまだあんまり知名度無いですしね」
 その分、不当に安く売られてる絵ですから、施設購入時に纏めて買った中に入ってたんじゃ無いですか?……そう有理は苦笑した。
「ああ、そうなんですか……新条さんは何故ご存じだったんです?」
「大学院時代に偶々、彼女の個展に飛び込んで以来ですね……この絵は狼に仮託した作者さんの心の旅を綴った連作なんです、興味がお有りでしたら、いくつかの絵は作者さんのホームページで公開されてますから、ご覧になって下さい」
 猫派としては、狼さんの絵が好きなんて裏切り行為ですけどね、そう言って有理はお盆に添えていた左手を離して、ポケットの中のスマートフォンを取り出そうとした。
「あれ?」
 妙に気の抜けた声が、有理の口から漏れる。
 体の中心線が不意にずれた……としか言いようがない。
 すこし有理を見上げるような姿勢になっていた透の目に、僅かによろけてテーブルに手をつこうとする有理の姿と、その手を離れて宙を舞おうとする湯飲みが、はっきりと映った。
 
 それは咄嗟の時の生き物の本能として、より未来有る命を守ろうとする行為だったのか、それとも、その程度は致命傷にならないという人間の判断力がそうさせたのか……。

 透は、膝の上の子猫をかばうように身を伏せた。
 願わくは……有理さんが動物の好み同様の猫舌でありますように……っ。
 
 あっ、と思った有理が、慌てて湯飲みに手を伸ばそうとするが、そうそう手が届く物ではない。
(主任、ごめんなさいっ)
 思わず伏せようとした、有理の視界の先を、鋭く掠める影があった。
 バシッ!
 迅く、鋭く乾いた音が室内に響く。
「え?」
 慌てて身を乗り出した為、テーブルに突っ伏すような形になった有理の眼前に白と茶と黒の優美な姿が音もなく着地した。
 身を伏せた透を守るように、テーブルの上に、あの小憎らしいアカネコが凛とした姿で立つ。
 湯飲みは愚か、お湯すら透と、彼が庇った子猫の上には降りかかった様子も無い。
「猫……ぱんち?」
 呆然と呟く有理の声が聞こえたのか、いつまでも降ってくる筈の物が落ちてこない事を訝しがったのか、透が目を上げ、ついでに、マンチカンの子猫もいい気持ちで寝ていたところを起こされて、一緒に顔を上げる。
 ぷゆ?
 その鳴き声に、アカネコは心配要らないというように、テーブルから僅かに身を乗り出して子猫の顔を何度か舐めてやった。
「……えっと、新条さん、湯飲みは?」
「私も良く判らないんですけど……多分、その三毛ちゃんが猫パンチで」
「……弾いた?」
「はい」
 その有理の言葉に、透はしばし無言で有理の顔をマジマジと眺めた。
「冗談ですよね?」
「だったら良いんですが」
 その言葉と共に指さされた先には、壁まで弾き飛ばされて盛大にほうじ茶を振りまいてしまっている湯飲みの姿が有った。
「念のために言いますけど、私じゃないですよ」
「成程」
 これは、猫の狩猟本能、と言って良いんだろうか。
 それとも。
(この子のついでに僕も守って貰った……かな)
 舐められていい気持ちなのか、マンチカンの子猫は透の膝の上でゴロゴロと喉を鳴らしている。
「ありがとうございます、アカネコさん」
 そう言って、透はごく自然に謝意を示す為、アカネコの小さな頭を、その手で包み込む。
 みゃ?
 僅かに驚いた様子で、子猫を舐めるのは止めたアカネコだったが、今だけは透の手を嫌がる様子も無く、控えめな歓迎の意を示すように眼を細めて、低く喉を鳴らした。
 湯飲みと、その中のお湯がかかった所で、透にとってどうこうは無かっただろう。
 ただ、この猫が彼を守ってくれたのもまた事実である。
 柔らかい頭を、感謝を込めて撫でる。
「……ありがとう」
 ゴロゴロ。


「何が起きたんだ、一体……」
 慌てた美濃川が、録画されていた分を巻き戻して別のモニターに映し出す。
 コマ送りの画像を苛立たしげに送ったり戻したりしているが、対象物の速さが凄まじすぎるのか、漫画で言うところの効果線しか残っていないような映像がコマ送りされるだけの物しか映っていないのを見て、美濃川は頭をがりがりと掻きむしった。
「ああもう、こんな事ならフレームレートをケチるんじゃ無かった」
 本来、この実験において重要なのは透や有理が付けている、猫と接する時の脳波や心拍、神経の電流パルス、そして、彼が追い求めているNM波と仮称された、正体不明のエネルギー波のデータだけ。
 実験室の室内映像などというのは、何をした時に、これら採取データに変化が生じたのか確認するためだけの物であって、それ程細かいデータとしては必要ないから、HDD容量の確保の意味を込めてフレームレートを落とした……という、こんな予測不能な事態が生じない限りは妥当な判断に基づいての物だったのだが。
「何てぇ速さだい……」
 かろうじて判ったのは、有理が姿勢を崩しそうになった辺りで、既にアカネコはキャットタワーから大きく跳躍、一度着地し、その反動を使った更なる勢いで、それこそ弓弦を放たれた矢のような勢いで透の前に飛び込み、空中で湯飲みを一撃して弾き飛ばした……らしい。