東奔西走メッセンジャーズ 第一話
「あんな美人に優しく弄られるなんざ、うらやましい限りだな、おい」
我が金属とゴムの相棒殿の口が利けたら、さぞや文句を言われるだろう台詞を投げかけながら、俺は今更ながら、その無駄の無いスマートな姿と正面から向き合うべく、いわゆる体育座りをした。
上から見下ろすのとはまた違って、パーツの一つ一つの姿がちゃんと見える。
(ディレラーの調整が甘いって言ってたな……後はハブだっけ)
ピカピカしてて綺麗だとしか俺には見えないが、彼女が初対面のブラフで言ってる訳じゃない事は何となく判る。
つまり、それが素人と先輩の差なんだろう。
(たかが自転車と思っていたけど、その道でプロになろうってのは、そう甘いものじゃ無いって事なんだろうな)
「そうそう、愛車君とはよくにらめっこする癖を付けた方が良いよ」
上から、柔らかい響きの心地いい声が降ってくる。
「後は、乗った日には毎日、乾拭きでも良いから車体を綺麗にしてあげると、自転車と仲良くなれるよ」
「自転車と仲良く……ね」
昔ボールが友達だったりした漫画があったっけか。
それに比べると、こっちはずいぶんお堅い友人候補だな……
「メルヘンですね」
腰を上げながら返した言葉が、若干皮肉の色を帯びる。
幼稚園児に自転車教えてる訳でなし、幾らなんでもいい年した男に言う台詞じゃ無いだろ……。
「ふふ、夢が有るでしょ」
これが氷川教授だったら、返す言葉の刃で、余計な事を言う輩に口は災いの元であるという事を骨身に刻み込む所だが、まりな先輩は薄く微笑みを浮かべて、俺の安っぽい皮肉をさらっと流した。
(なるほど、こりゃ氷川教授を瑠璃ちゃんとか呼べる訳だ……)
懐が深いというか、ごく普通に自然体を保っているというか。
「さて、それじゃ後に付いて来て、野良屋に案内するから」
「お手柔らかにお願いします」
本気で走られたら、多分着いて行けないだろうしなぁ……。
「あはは、こんな天気の良い春の日だもの」
そう言いながら、先輩は綺麗な空に目を向けた。
「風景と空気を楽しみながらノンビリ行こうよ……風も風景も友達に出来るのが自転車って事を感じながらね」
……さっきの一言といい、これも恥ずかしい台詞だなぁ。
けど、それ以上に、この人がここまで言う、自転車って奴の魅力に早く触れてみたいって気持ちになる。
駅前通りに通じる道を歩きながら、先輩は脇に植えつけられた木々に目を向けた。
「今だと梅が綺麗だね、良い香り……」
「ええ、本当に」
あながち社交辞令じゃなくて、割と素直にそう思えた。
季節を感じるなんて、ここ最近無かったし。
そんな事を思いながら、自分の自転車を引きながら歩いて行く。
「そう、もうちょっとすると桜が綻びだすね……自転車には一番良い時期だよ」
俺の横に並んだ先輩が、柔らかい日差しを見上げながら、猫みたいに目を細めるのを、何となく見てから、俺も視線を上に向けた。
彼女の自転車の色みたいな、柔らかくて深い青が拡がる。
(さしずめ、春の風に乗って……ってとこなのかね)
思わずそんなイメージを抱いてしまった自分に苦笑する。
……この短時間で、大分この人のペースに巻き込まれたな。
まぁ、不快ではないから良いんだけど、我ながら珍しい。
(ま、新天地での新生活でいきなり美人とお知り合いになったんだ……俺の気分位、多少は変わるだろうさ)
この不思議な女性との出会いが、気分どころか人生そのものを変える邂逅になるとは、まだ気が付いていない通雄であった。
2
自転車を引いての散歩は僅かな物だった。
「はー……」
「中々凄いでしょ」
広い道と完備された歩道が眼前に拡がる……それにしても。
「変なレイアウトの道路ですね」
自転車専用道と書かれたエリアが車道と歩道の間に2本並んでいる。
「あ、それね、右が追い越し車線」
高速道路かよ。
心の中だけでツッコミを入れつつ、道路を見晴かすと、結構な数の自転車に乗った人影が見られる反面、車の通行はごく僅かな物だった。
この比率が維持されるなら、妥当な道路面積の割り振りといえる。
利用人口の比率はすなわち影響力の比率です、という教授の言葉が思い出される。
「車、少ないですね」
「まね、どうしてもの物流用の貨物車輌、後は警察、救急、消防等の緊急車両、他だと身障者用の車両等ね……それ以外は、極力走らせない方針のモデル都市だから」
「ははあ……でも大荷物運ぶ時はどうするんです?」
「レンタカーがメインね、免許が無ければ軽トラを頼めるタクシーって手も有るし」
一応考えては居るんだな……と考えた所で、計画段階からオブザーバー参加している、怖い教授の顔を思い浮かべた。
……流石に抜かりが無いようで。
「お店で買った物を配達して欲しい場合なんかは、運河を使った水運のステーションがあちこちにあって、そこから業者が配達してくれるから、そんなに大荷物抱えて長距離移動しなくて良いようになってるしね」
なるほど、江戸的な街を現代風にリファインする、って意味合いを込めて江都と名付けたってのは、あながち与太じゃないわけだ。
「この街で必要なのは、『注文したら翌日届く』的な欲求を我慢することだけよ」
確かに……思えば不自然を自然と思い込まされている事がなんと多いことか……。
「じゃ、走行車線をのんびり行こうか、この街は自転車専用道路が完備されてるから、ホントに助かるのよね」
そう言いながら、先輩はちょっとレトロな感じの、フレームの細いサングラスを掛けた。
「そうか、サングラス要りますね」
「そうだねぇ、日差しも有るけど埃や虫から目を守ってくれるって用途の方が大事かも」
花粉症持ってるなら、ゴーグルとか使う人もいるけど、君は?なんて言いながら、先輩が俺の顔を覗き込む。
「幸いな事に、アレルギーは大丈夫なんで」
「何よりだよね、花粉症もちの自転車乗りは、この時期強盗と間違われる姿になっちゃうから、ホント大変なのよ……」
知人にそんな人物が居るのか、妙に実感のこもった先輩の言葉だったが、その姿を想像した俺は、つい失笑してしまった。
「ゴーグルは曇り易いし、マスクは邪魔だしで本人も苦労してるからさ、本物見ても笑っちゃ駄目よ。さて、それじゃ出発しようか」
先輩は愛車のフレームのハンドルとサドルを繋いでる部分……確かトップチューブって所だな……に跨るようにして立った。
モデルもびっくりの長くて細い先輩の足だが、そのサドルは腰より高い位置に有った。
「サドル、そんなに高くて大丈夫なんですか?」
「これで良いんだよ……ほら」
右足がペダルにかかり、自転車を漕ぎ出すと同時にジーンズの似合う、綺麗なお尻がふわりとサドルの上に乗る。
「おお」
「降りるときは、こう」
ひょいとサドルから前に降りてみせる。
柔らかくて軽快そうな身ごなしは、何となく猫を思わせる。
まさか、それで猫間さんじゃあるまいが……。
「判った?サドルの高さは別に足が付く高さじゃなくて良いって事?」
「ええ、まぁ」
それは急な時に大丈夫なのか?と思いつつ、俺は曖昧な返事を返しつつ、こちらは座ったままでもつま先が付く高さの、自分のサドルに跨った。
作品名:東奔西走メッセンジャーズ 第一話 作家名:野良