東奔西走メッセンジャーズ 第一話
「この街に来る様な人だと、一人3台くらいは割りと当たり前に持ってるんだけど」
「……体一つに、どうしてそれだけの数要るんです?」
心底不思議そうな俺の顔を暫くまじまじと見て、まりな先輩はそれに直接答えずに逆に質問を返してきた。
「ごめんね、失礼な事を聞くようだけど……君、自転車って……」
気まずそうな彼女の顔を見返しながら、俺は肩を竦めた。
「ズブの素人です、ママチャリしか乗ったことありません」
その俺の言葉に、先輩は僅かに天を仰いで何かを呟いた。
かすかに、瑠璃ちゃんってば、もう、なんて言葉が漏れ聞こえる。
それも僅かな間の事で、先輩は俺の肩に担がれた黒いカバンに目を向けた。
「輪行バッグなんて持ってるから、てっきり慣れてる人かと思っちゃったわ」
「ああ、これですか。氷川教授の入れ知恵です、今から慣れた方が良いと」
俺の言葉に、先輩は微苦笑を浮かべた。
「瑠璃ちゃんらしいわね。それで中身は……まさかママチャリ?」
その自分の言葉を打ち消すように、ホイール外すの大変だからそれは無いか……などと呟きながら、カバンに手を触れる。
「いえ、氷川教授に商売道具なんだから調べて良い物買って行きなさい、って言われまして、それなりの奴を通販で」
俺の言葉に、何か言いたい事を我慢したような曖昧な表情で、先輩は口を開いた。
「ちょっと見せて貰っていいかな?どの道、ここから野良屋まで乗っていって貰わないといけないし」
「構いませんよ……というより、何時出そうか迷っていたので」
そう言いながら、バッグを下ろす。
前輪だけ外すタイプの輪行バッグから、空気を入れた以外は、殆ど届いたままの姿で持ってきた、我が愛車(候補)を外に出す。
尤も、納期が若干遅れたせいで、試乗すら実はやってないので、何がママチャリと違うのか、実は良く判ってない。
確かに感じたのは、ママチャリより圧倒的に軽いって事くらいか。
クロスバイクって奴にカテゴライズされるその姿を見た、まりな先輩の表情が安堵に緩む。
「LGS-RSR4かぁ、良いの選んだね……それに綺麗な緑色〜」
「あ、あははは、どうも」
言えない……これが在庫セールで残ってた色だとは。
まぁ、緑は嫌いじゃないが、本当は黒が欲しかった……。
それにしても、見ただけで車種を言い当てるとは流石だな。
「流石にピカピカねぇ、ところで、これ瑠璃ちゃんとかに見てもらった?」
「……そんな、玩具買った子供じゃあるまいし」
「そういう意味じゃ無いってば」
苦笑して、手をパタパタ振りながら、まりな先輩は言葉を継いだ。
「一通りの整備状況を誰か詳しい人かショップに見てもらったか、って聞きたかったんだけど、その調子じゃ無さそうね」
それはアレか、氷川教授ってば自転車の整備までプロ級に出来るって意味なのか。
あの人、どんだけ多芸なんだよ……。
それはさておき、この安物買ったような態度は心外だな。
そりゃ、先輩の自転車に比べりゃ安いだろうけどさ……。
「見て貰うっていうか……ちゃんとした専門のショップで買ったんですが、それじゃ駄目なんですか?」
声に不満そうな調子が若干籠もるのは勘弁して貰いたいモンだ。
「店員さんの質まで、通販じゃ見えないでしょ?」
さらっと言いながら、まりな先輩は真剣な表情であちこち眺めだした。
ややあって、軽く溜息を吐きながら、駐輪場の壁に立てかけてあった自分の自転車に向かう。
サドルに付いていた可愛らしい小さな物入れーサドルバッグとか言ったっけかーから何やら取り出してこちらに歩み寄ってくる。
十徳ナイフみたいなアレは、確か携帯工具だったな。
「ゴメンね、嫌味に聞こえちゃったなら謝るけど……今ってちょっとした自転車ブームで、そのせいか大きいお店ほど人手が足りなくて、ちょっと弄れる程度のバイト君雇って、僅かな研修期間で組ませてる自転車屋、結構多いのよ」
嘆かわしいと言いたげな口調で呟きながら、彼女はサドルの下側に手を入れた。
「例えばコレ、締まってるように見えるでしょ?けど、レールが少しずれた状態で締めちゃってるから、ちょっと走ると緩み出すかもよ」
「……マジですか?」
それ、シャレにならん位危ないじゃないか。
「うん、後ディレラーの調整も若干甘いし……」
ディレラー……ああ、変速機ね。
一々日本語に変換し直さないと、どうもピンと来ないな。
そんな俺を尻目に、先輩が後輪を少し持ち上げて、軽くホイールを回してみせる。
「仕方ないことだけど、ハブも玉当たりの再調整して貰った方が良さそうね。このハブ……車軸部分ね、調整してやると良く回るから、このまま使うのは勿体ないよ」
こっちを振り向きながらの彼女の嫌味のない笑顔を見ると、不満がすっと消えて行くのを感じる。
何となく判った……この人、心底自転車が好きなんだ。
だから、不備な自転車には我慢がならないんだろう。
「まぁ、他はともかく、サドルだけ何とかしないとね」
そう言いながら、先輩はビニール手袋をはめて携帯工具のヘキサ(六角)レンチを開いた。
「本当は水平出した方が良いんだけど、今は目見当で調整しちゃうよ」
「お願いします」
正直、そこまで厳密にやる事か?って思いが先に立たなくもない。
作業をしている先輩の姿を後ろから見ながら、俺は最前から疑問に感じていた事を口にした。
「サドルが緩むなんてママチャリで高校3年間通学してた間も経験した事無いんですが、珍しい事なんですか?」
俺の言葉に、サドルをひねくっていた先輩が俺に顔を向ける。
「ママチャリはヤグラ固定だし、そもそも緩む要素がないからねー」
「?」
不得要領な俺の様子を察したのか、まりな先輩が苦笑しながらサドルを固定している金具を指さす。
「スポーツ自転車のサドルってね、こうやって前後と傾きが調整できるようになってるの、可動範囲が多い分、当然ながら、緩むリスクも有るって訳」
「固定しちゃ駄目なんですか?」
「そうすると、各自の体型に合わせたベストなポジションが出せないでしょ?前後に1mmズラしただけで、乗り味が別物に変わる世界よ」
「1mmで……」
機械ではmm単位のズレが致命傷なのは何度も見てきたが……自転車でもそうなのか。
「ま、安心して、そうそう有る話じゃ無いから……ただサドルの位置調整や交換って、今後もやる機会が多いと思うから、自分で取り付ける時は気をつけてね」
サドルの交換って言われてもな……そんなに早く壊れる物じゃ無いだろ。
「……はぁ」
気の無さそうな俺の返事を聞いて、まりな先輩は微苦笑を浮かべた。
「まだピンとは来ないのは当然だよね、ゴメンなさい」
ぱたぱたと手を振ってから、彼女は手袋を外した。
「取り敢ずコレで大丈夫、後、サドルの高さなんだけど、これじゃ低くない?」
「丁度、足は着く高さなんですが」
俺の脚がそんなに長く見えるか?
「着いちゃ拙いんだけどね〜……ま、良いか、その内判るだろうし」
何やら気になる事を呟きながら、彼女は携帯工具を右手でクルクル回しながら自分の自転車のほうに向かった。
かなりの指先の器用さを偲ばせる彼女の手つきに見とれつつ、俺は我が愛車のサドルに手を乗せた。
作品名:東奔西走メッセンジャーズ 第一話 作家名:野良