紺青の縁 (こんじょうのえにし)
霧沢は突然名前を呼ばれて訳がわからない。しかし女性は続けざまに言葉をほとばらせる。
「霧沢君よね。やっと来てくれたんだね」
霧沢は目の動きを止めた。そして女性にきっちりと焦点を合わせ、凝然(ぎょうぜん)として見つめる。
「えっ、ルリさん?」
霧沢は思わず驚きの声を発してしまった。
「霧沢君、私のこと、憶えていてくれたんだね。嬉しいわ」
女性は満面の笑みを浮かべ、言葉を強く溢れさせる。だがその笑いが消え、微笑みへと変わった時、そこには成熟した女の色香があった。
ルリは学生の頃、実に若くて溌剌としていた。絵の中にいる竹久夢二の恋人、彦乃、その彼女をずっとモダンにして、さらに十倍元気にしたような東京出身の女子学生だった。
春休みや夏休みになると、東京にも帰らず、なぜかこのジャズ喫茶店でアルバイトをしていた。
霧沢はルリと格別な恋愛関係にあったわけではない。しかし、時々賀茂大橋を起点にして、二人で意味もなく彷徨(さまよ)い歩いた。またこのジャズ喫茶店の窓際の席で、人生や恋愛について時の経つのを忘れて話し込んだりもした。
そして夏になると、ルリはいつも短めのホットパンツを穿いていた。長くスラッとした足。そしてその付け根にある太股。その肉の白さが異常に目映(まばゆ)く、霧沢の目に焼き付いている。
そう言えば、ルリはそんな剥き出した足で、霧沢の前をスキップを踏むように跳ねて歩いていた。霧沢にとって、それはまるでルリが青春を一人占めしているかのようにも見えていた。
そんなルリだが、霧沢には一つわからないことがあった。
霧沢亜久斗の愛称は……アクちゃん。
同じ美術サークルに所属していて、互いに心をかなり開いていたはず。しかし、ルリは霧沢のことを愛称で呼ばず、なぜかいつも霧沢君と君付けで呼んでいた。
そんなルリが今霧沢の前にいる。
「ルリさん、御無沙汰してました。それでこの八年間、どうしてたの?」
霧沢はまずそう声を掛けた。
「いろいろあったわよ。辿(たど)り着いたら、やっぱりここだったわ」
ルリは少し恥ずかしいのか、はにかんでる。
作品名:紺青の縁 (こんじょうのえにし) 作家名:鮎風 遊