紺青の縁 (こんじょうのえにし)
「ねえ、あなた、これからどうするつもりなの?」
横に寄り添っているルリから、心配そうに声が掛かってきた。しかし、霧沢は沈黙したまま顎(あご)の辺りに手を持っていき、少し伸びた髭をただ無造作に摩(さす)るだけ。
ルリはこんな霧沢が多分じれったいのだろう、「そうだわね、第一線からはもう退いたのだから、時間は一杯あるでしょ。また絵でも、一緒に描きましょうよ」と勝手に結論付けた。
霧沢は遠く霞んだ山並みを、まるでそれに陶酔しているかのように眺めたまま、「そうだなあ、だけど絵を描く前に、ちょっと調べておきたいことがあるんだよなあ」と、横にいるルリに由有り気(よしありげ)に返した。
ルリはそれに対し「そうなの」と一旦小さく呟いたが、考えを巡らせている。そして、夫が何を考えているのかをきっと見透かしてしまったのだろう、言葉を続ける。
「ねえあなた、あなたが調べておきたいことって、逝ってしまった宙蔵(ちゅうぞう)さん、それと洋子(ようこ)、そして桜子(さくらこ)、それに光樹(こうき)さんと沙那(さな)、この五人のことなのね。……、知り過ぎない方が良いこともあるのよ。あなた、それでもいいの?」
ルリがこう囁き、その後何かに怯えたかのように、自分の手をそっと霧沢の手に添わせてる。霧沢は「うん、だけど、やっぱり調べてみるよ」と妻に再度自分の意志を伝えた。
まさしくこの年の三月末日で、霧沢は長年の会社生活に終止符を打った。そして現在、妻ルリとの第二の人生が形式的には始まったところだと言える。
霧沢にとっての定年退職後の人生、勤務していた頃は日々多忙の中にはあったが、ルリが薦めるように好きな絵でも描こうかと思っていた。しかし、その前に、自分なりに結論付けをしておきたいことがある。
それは今まで深く考えることもなかった四つの出来事。それらの過去を振り返り、己の気持ちに決着を付けておきたいのだ。そうしなければ第二の人生へと踏み出せない。
それほどまでに霧沢亜久斗が拘(こだわ)ってしまう四つの出来事、もしそれらを紐解こうとするならば、学生時代、すなわち四十年前まで遡らなければならない。
それを言い方を変えて言えば、そこからルリとの男と女の一つの物語が始まった。そして、それはまだ終わっていないのだと霧沢は思えてくるのだった。
作品名:紺青の縁 (こんじょうのえにし) 作家名:鮎風 遊