紺青の縁 (こんじょうのえにし)
霧沢亜久斗(きりさわあくと)は還暦の歳となった。
そして、この年の三月末日をもって、長年勤めてきた京都の会社を定年退職した。
それからまだ一週間も経たない桜咲く春光うららかな日に、妻のルリとともに三千院と寂光院(じゃっこういん)の大原一円を散策した。
もちろんこの辺りのベストシーズンは紅葉の頃。だが久し振りに妻と歩いたのどかな里村の道、気分は最高だった。
そして叡山(えいざん)電鉄で出町柳(でまちやなぎ)まで戻ってきた。河原町今出川(かわらまちいまでがわ)辺りで、久々に二人で夕食でも取ろうかと、今賀茂大橋(かもおおはし)を渡っている。
それは北の貴船、そして鞍馬から流れくる賀茂川と、八瀬大原から下りくる高野川が合流する地点、そこに架かる大きな橋なのだ。
今は桜花爛漫(おうからんまん)の時節。花に酔った人たちの行き交いがそこにはある。しかし、霧沢はそんなざわめきの中にもそこはかとなく漂う古都の風情を感じ取ったのだろうか、橋の中央でふと足を止めた。
それから何かを思い出したかのように、川の流れを漫然と眺め、その視線を上流へと遡(さかのぼ)らせる。そして、その先にある風景をぼんやりと眺める。
賀茂大橋からの遠望、それは学生時代から何も変わっていない。今も右に比叡山、左に鞍馬山、そして中央には北山の山々が連なっている。だがこの時季は春霞がかかっているのか、遠景の山々の輪郭は不明瞭でぼやけている。
それでも霧沢は、そこからの眺望が一番気に入っているのだ。そのせいか、まるで心を奪われてしまったかのようにそれに眺め入ってしまっている。
作品名:紺青の縁 (こんじょうのえにし) 作家名:鮎風 遊