紺青の縁 (こんじょうのえにし)
霧沢がルリの前から消えた八年間、二人で残した痕跡は何もなかった。あったのは想い出だけを思い出す、そんなやり切れない日々だった。
そしてその翌朝、ルリは置き手紙を残し、部屋にはもういなかった。だが、ルリの絶頂の証の紅葉の手形、それが朝の陽光に乱反射し、美しく光り輝いていた。
霧沢はそれを消してしまうと、ルリとのすべてを失ってしまいそうな気がした。そのため、その愛の名残(なごり)をそのままにし、部屋を出て行った。
霧沢はルリとの初めて夜のことを、渡月橋の賑わいの中でフラッシュバックするかのように思い出した。だがそれは三十年前の出来事。
「そのシティホテルに泊まっても良いけど、もう時が経ってるから、同じ部屋なんてないし、多分窓ガラスも変わってしまってるよ、ルリ、それでもいいの?」
霧沢は今まで連れ添って共に頑張ってきてくれた妻を思い、できるだけ優しく聞き返した。
夫婦喧嘩もしたし、事実離婚の危機もあった。だが霧沢はそれをも包み込み、ルリを一途に愛してきた。
ルリにはわかっている。霧沢は随分とルリの我が儘も聞いてきてくれたと。
「ううん、いいの、もう部屋はなくなっていても。そこへ泊まるのを一つのセレモニーにしてね、過去を完璧に消し去って……、私たちの切っ掛けにしたいのよ」
ルリはこんなことを囁いてくる。霧沢はセレモニーにしろ何にしろ、ルリを初めて抱いたホテルに泊まりに行くことはやぶさかでない。しかし、「切っ掛けって、何の切っ掛けにするの?」と尋ね返した。
するとルリは「ふふふ」と小さく笑ってじらしてくる。こうなれば霧沢は余計に知りたくなる。「何だよ、切っ掛けって、早く言ってよ」とせっついた。ルリは澄ました顔をして、自信たっぷりに話す。
「アクちゃんね、沙那が全部過去を消してくれたわ、だけどね、私たちには一つだけ消えずに残っていたのよ。それが、あの紅葉のテガタよ。アクちゃんは、またいつ過去を振り返るかも知れないでしょ、だから、これも消してしまいたいの。これからの私たち、新たな気持ちで共に穏やかに歩んで行くために、……、その切っ掛けにしたいのよ」
霧沢は「なるほど、そういうことなのか」と思い、もう言葉が出てこない。そして、ぼうと嵐山の山並みを眺めてみる。
そこには鳥居形の五山の送り火で紅く燃え輝いていた山はなく、どこまでも深い青、そう紺青の山々が連なっているのが見える。
作品名:紺青の縁 (こんじょうのえにし) 作家名:鮎風 遊