紺青の縁 (こんじょうのえにし)
ルリはそれを待ってましたとばかりに、「一つ目はね、この橋を渡ってる間、絶対に後ろを振り返らないでね」と言う。
霧沢はそんなことはわかっている。嵐山の法輪寺に、知恵もらいの十三詣りをした子供が橋の上で振り返れば、そのもらった知恵を返してしまうという言い伝えがある。
そして、それは今、渡月橋を渡るカップルが後ろを振り返ってしまえば別れがある、そんな伝説めいたものを生み、噂されている。
「ああ、もちろん振り返らないよ」
霧沢はそう軽く返し、「それで、二つ目のお願いって、何?」と訊いてみる。
するとルリは、「ねえ、アクちゃん、憶えてる? 私たち、あれを残してきたでしょ」と、少し口ごもりながら話すのだ。
しかし、霧沢は妻の言うあれがわからない。「あれって、何を残してきたんだよ?」とすぐさま聞き返した。
いつの間にか、ルリは霧沢の腕にぶら下がるように寄り掛かってきている。そして少し語調を強めて発する。
「私、あれを消しに行きたいの」
霧沢には、その「あれ」が思い浮かばない。ただただ「うーん」と唸るだけだった。ルリはそんな霧沢に痺れを切らせたのか、ついにその「あれ」を言葉にする。
「あの時、ホテルの窓ガラスに残してきたでしょ、……、私の手形よ」
霧沢はこれを聞いてしばらく考えていたが、ようやくその意味がわかった。
まさになるほどと思った。そして当時のことが霧沢の脳裏にまざまざと蘇ってくる。
シティホテルの窓から見た月は、その輝きを透明にし、中天に青白くぽかりと浮かんでいた。
「あのお月さんまで、二人で飛んで行けたら、いいわね」
確かルリは、そんなことをぼそぼそと小声で呟いた。
その後に、「ここでお月さんを見ながら……、して」と、ルリはせがんできた。
そして、「ああ、あの月に、アクちゃんと一緒に」と言いながら、ルリはイッタのだった。
事が終わり、霧沢がルリの手をゆっくりと窓ガラスから外すと、そこには紅葉のようなルリの手形がガラス面に浮き出ていた。
「ルリ、見てごらん、ルリの手の跡が残ってるよ。消しておこうか?」
霧沢はそう尋ねてみた。
「ううん、いいのよ。そのまま残しておいて」と、ルリは淡泊に返してきた。
霧沢はそれを、まるで愛の痕跡(こんせき)を残しておきたいというルリの意思の表れなのだろうかと思った。
作品名:紺青の縁 (こんじょうのえにし) 作家名:鮎風 遊